豪徳寺の招き猫は、右手を上げ、小判を持ちません。寺が伝えるのは、猫が井伊直孝を招いたという縁の物語です。一方、井伊家の菩提寺になった年や、境内の建物が建った年には別の記録があります。駅から寺へ向かう町には、城跡の公園、川を覆ってつくった緑道、明治期の洋館を守って使う人たちの活動もあります。猫だけで終わらない豪徳寺の姿を、場所と年代を分けてたどります。

町の輪郭

「豪徳寺」は駅、町名、寺の名前

豪徳寺は東京都世田谷区の町名で、小田急線の駅名でもあり、豪徳寺二丁目にある寺院の名前でもあります。この記事で歩く範囲は、豪徳寺駅がある一丁目から寺のある二丁目まで。寺の公式案内では、豪徳寺駅から徒歩約15分、東急世田谷線の宮の坂駅からは約5分です。駅名だけで近さを判断せず、どちらから向かうか選べます。

豪徳寺の山門。門の前に参拝者が立っている
豪徳寺の山門。Higa4 / Wikimedia Commons / CC0 1.0(2025年3月20日撮影)。縮小画像を使用、構図・内容の変更なし。原掲載ページと利用条件は末尾の参考資料へ。

町を寺だけで捉えると、北側の暮らしが見えにくくなります。豪徳寺一丁目には北沢川緑道が通ります。世田谷区の風景資料によると、昭和30年代頃まで見えていた川の流れは、現在は歩行者用の緑道に姿を変えました。川跡に沿う道と、寺へ向かう道では、町の成り立ちを読む手がかりが異なります。

人口は駅の利用者数ではない

世田谷区の住民基本台帳原表を同じ基準日で集計すると、2026年1月1日の豪徳寺一丁目は4,278人・2,664世帯、二丁目は2,511人・1,266世帯です。二つの町丁目の合計は6,789人・3,930世帯。年齢別原表を同じ範囲で足すと、0~14歳678人、15~64歳4,519人、65歳以上1,592人で、総人口と一致します。

これは行政上の町丁目に住民登録のある人の数です。豪徳寺駅を使う人、寺の参拝者、宮の坂駅側の住民をまとめた数ではありません。観光地としての顔と、住む町としての規模を混ぜずに見るための数字です。

歴史と発展

城のあった丘と、弘徳院

豪徳寺と隣接する世田谷城阯公園は、中世の世田谷吉良氏に関わる場所です。世田谷区立郷土資料館の資料には、城跡から出た土器に「雲関」と記されたものがあり、城内にあったとみられる弘徳院との関係が示されています。ただし、土器から寺の建物の位置まで確定できるわけではありません。

寺の公式沿革では、1480年に建立されていた弘徳院が前身です。1633年に世田谷が彦根藩の所領となり、井伊家は弘徳院を江戸の菩提寺と定めました。1659年には井伊直孝の法号にちなみ、豪徳寺と改称したと記されています。寺の名前は、招き猫の伝承だけでなく、井伊家の供養を担う役割と結びついています。

世田谷城阯公園の石標と、背後に残る起伏や木々
豪徳寺二丁目の世田谷城阯公園。写真に写るのは現在の公園で、城の建物ではありません。Higa4 / Wikimedia Commons / CC0 1.0(2025年3月20日撮影)。縮小画像を使用、構図・内容の変更なし。原掲載ページと利用条件は末尾の参考資料へ。

猫の話と、建物の年代は別に読む

寺が伝える話では、鷹狩り帰りの井伊直孝が門前の猫に招かれて寺に立ち寄り、雷雨を避けて和尚と話したことが縁の始まりです。これは寺に伝わる由来の物語です。1633年や1659年といった沿革の年を、猫の動きを実証する日付として扱うことはできません。

境内の建物にもそれぞれの時代があります。寺の解説では仏殿は1677年の建立、三重塔は2006年の落慶です。どちらも寺の歴史を伝えますが、同じ江戸時代の建物ではありません。形が古風に見えることと、建築された時代を分けると、境内が使われ続けながら整えられたことがわかります。

豪徳寺の三重塔。屋根が三層に重なる
豪徳寺の三重塔。2006年落慶の建物を2010年に撮影。あばさー / Wikimedia Commons / Public domain。縮小画像を使用、構図・内容の変更なし。原掲載ページと利用条件は末尾の参考資料へ。

人と暮らし

井伊直孝・直弼と、祈りを続ける人

井伊直孝は、豪徳寺への改称で法号を用いられた彦根藩主です。寺の公式案内は、直孝と幕末の大老・井伊直弼の墓を含む井伊家墓所が、2008年に国の史跡に指定されたと説明しています。二人はこの寺にゆかりのある人物ですが、「豪徳寺の町の出身者」とは書けません。寺との関係は供養と墓所です。

豪徳寺は歴史を展示するだけの場所でもありません。寺は現在も法事・法要に使う久昌殿を案内し、写経の会も告知しています。招福猫児の奉納所に並ぶ猫にも、願いがかなった後に納める人が多いという寺の説明があります。奉納に一律の決まりはなく、参拝の仕方を一つに決めつける必要はありません。

洋館を残して使う人たち

豪徳寺二丁目の旧尾崎テオドラ邸は、寺とは別の時代の営みを伝えます。運営団体の説明では、明治期に建てられた洋館が1933年に現在地へ移されました。長く「尾崎行雄の旧宅」と伝えられましたが、調査を経て、妻の尾崎テオドラ英子の来日に際して父が建てた建物だと説明を改めています。由来の確認が、建物の見方を変えた例です。

2020年の解体危機を受けて、漫画家の山下和美と笹生那実らが保存に取り組みました。運営する一般社団法人は2022年設立、改修後の施設は2024年3月に開館しています。山下さんの豪徳寺との関係は、出生地の推定ではなく、この建物を守り使う活動として確認できます。

仕事と店

明治期の家を、漫画のギャラリーと喫茶室にする

旧尾崎テオドラ邸の仕事は、建物を保存するだけで終わりません。運営団体は保存した洋館で漫画の展示、ショップ、喫茶室を営んでいます。展示替えのために休館日もあるので、訪れる前に催しと営業日の確認が必要です。入館にはチケットが必要で、喫茶室やショップだけを使うことはできません。

寺の授与品と洋館のショップを同じ「猫の町の店」とひとまとめにはできません。前者は信仰と参拝に関わり、後者は古い建物を公開・維持する事業の一部です。それぞれの担い手と用途が違うことに、町の仕事の幅が表れています。豪徳寺駅周辺には世田谷区の商店街一覧に載る豪徳寺商店街振興組合もありますが、この記事では個々の店の営業状況まで一律に保証しません。

見どころ

招福殿では、猫の右手と小判を見る

豪徳寺は招き猫を「招福猫児」と呼びます。寺の説明では、猫が招くのは人との縁で、そこから福を生かすかは本人次第です。小判を持たない姿は、金銭をそのまま渡す像ではないという教えと結びつきます。招福殿と奉納所を見るときは、像の形だけでなく、人が願いを託し、感謝してきた場所であることも思い出せます。

豪徳寺境内の、小判を持たず右手を上げた招福猫児
豪徳寺の招福猫児。Higa4 / Wikimedia Commons / CC0 1.0(2025年3月20日撮影)。縮小画像を使用、構図・内容の変更なし。原掲載ページと利用条件は末尾の参考資料へ。

寺から城跡、洋館、川跡へ

  • 豪徳寺:東京都世田谷区豪徳寺2丁目24-7。地図で探す。寺の公式案内は拝観6~17時、寺務所受付8~15時。祈りと墓所のある場所として、現地の立入・撮影案内に従ってください。
  • 世田谷城阯公園:豪徳寺2丁目14-1。地図で探す。区の公園資料に載る城跡の公園です。現在の園路と起伏を見られますが、中世の建物が残る場所としては案内しません。
  • 旧尾崎テオドラ邸:豪徳寺2丁目30-16。地図で探す。ギャラリー等の入館は有料チケット制。木曜と展示替え休館があり、施設の営業日カレンダーと予約条件を確認してください。
  • 北沢川緑道の豪徳寺一丁目付近:地図で探す。かつて流れが見えた川の跡をたどれる歩行者道です。緑道全体の4.3キロと、この町内の区間は同じ範囲ではありません。

訪問条件は2026年10月11日に各公式案内で確認しました。宗教行事、展示、受付は変わるため、当日の案内を確認してください。寺や旧宅を訪ねるとき、周辺の住宅や私人宅を見学先にしないことも大切です。

ほかの町との比較

梅ヶ丘と比べると、同じ沿線の「名所」もでき方が違う

小田急線で隣の梅ヶ丘には、羽根木公園の梅林があります。世田谷区の資料では、その梅林は1967年の55本の記念植樹から始まりました。豪徳寺では、寺の名と井伊家の墓所、招福猫児の伝承が町を知る入口です。梅ヶ丘では、駅名が先にあり、後から植え育てられた梅林が景観をつくりました。

どちらも駅から訪ねられる場所ですが、豪徳寺の猫を江戸以来の固定した飾り、梅ヶ丘の梅林を駅名と同時に生まれた景色とは考えられません。寺の沿革、参拝する人、洋館を守る人、川跡を歩けるようにした人。豪徳寺の町には、異なる時代の営みが今も並んでいます。