大分県日田市の山あいに、小鹿田皿山(おんたさらやま)という焼き物の集落があります。川の水で土を砕き、家の前で器を乾かし、斜面に築いた窯で焼く。小鹿田焼をつくる仕事は、集落のあちこちにつながっています。

器の模様だけでなく、その手前にある土づくりや、技を受け継ぐ人の経験を知ると、庭や水路の見え方も変わります。皿山の歴史と暮らしを、公開資料と5枚の写真からたどります。

町の輪郭

川と山の間にある、器づくりの集落

小鹿田皿山は、日田市北部の源栄町(もとえまち)にあります。福岡県との県境に近く、小野川の源流にあたる大浦川や五色谷川が流れる谷に、皿山と池ノ鶴の集落が形成されました。

窯業が営まれてきたのが皿山、農業や林業を営んできたのが池ノ鶴です。国の重要文化的景観「小鹿田焼の里」は、この二つの集落と、暮らしを支える周囲の山林を含みます。この記事では、器づくりが続く皿山を中心に見ていきます。

皿山で川が担うのは、土を砕く唐臼(からうす)の動力です。周辺から採った土を器の材料にし、木材を窯の燃料にする。水・土・木は、それぞれ違う工程で使われます。

冒頭の写真では、川のそばに建物があり、その背後の斜面に長い窯が見えます。山と川の間に仕事場が置かれていることが、景色からも読み取れます。

源栄町の人口と、皿山の窯元数は別の数字

日田市の自治会別人口統計表では、源栄町は2026年9月30日現在、106人・42世帯です。外国人住民を含む合計で、皿山だけの人口・世帯数ではありません。

一方、市が公表した2026年の小鹿田焼民陶祭には、9軒の窯元が参加する予定です。こちらは焼き物をつくる事業者の数で、住民の人数や集落の世帯数とは区別して読む必要があります。

歴史と発展

農家の器から、暮らしの中で選ばれる器へ

小鹿田焼の始まりは、18世紀前半にさかのぼります。日田市は、小石原焼の陶工・柳瀬三右衛門らが1705年に技術を伝えて開窯したと紹介していますが、これは伝承としての記述です。市の2020年の広報には、享保年間(1716〜1735年)とする見解も併記されています。

初めから鑑賞のための作品だけをつくっていたわけではありません。市の文化財解説によると、明治末期までは、甕(かめ)・鉢・壺など、農家が日常で使う器を製造していました。

現在の特徴として知られる「飛び鉋(とびかんな)」や「刷毛目(はけめ)」にも、変化の歴史があります。『広報ひた』2020年11月1日号は、大正末から昭和初めを、こうした技法が生まれた転換期として紹介しています。約300年続く産地でも、すべての形や模様が開窯時から同じだった、というわけではないのです。

1931年には、民芸運動を進めた柳宗悦が皿山を訪れました。柳は、その伝統的な技法と器の作風を評価しました。市の広報は、戦後の民陶ブームとともに産地の名が知られるようになったと紹介しています。

時期 皿山で起きたこと 器や暮らしを見る手がかり
18世紀前半 小石原の陶工が技術を伝えたとされる 山を隔てた産地とのつながり
明治末期まで 農家の甕・鉢・壺などを製造 誰が何に使う器だったか
大正末〜昭和初め 文様の技法が変化し、1931年に柳宗悦が来訪 受け継ぐ技にも転換点がある
1995年・2008年 技法が重要無形文化財に指定され、後に周辺を含む景観が選定 器のつくり方と、それを支える土地の両方を見る

景観を守ることは、暮らしを続けることでもある

小鹿田焼の里では、建物の形を残すだけでなく、住民が仕事や生活を続けられるようにすることも課題になっています。

日田市が2025年5月1日に公表した資料によると、同年4月22日に保存計画が変更されました。災害などで壊れた農地や畦道、棚田の石積みを中心に、178件を「重要な構成要素」から外したものです。対象は主に池ノ鶴地区で、皿山の窯が178件なくなったという意味ではありません。

市が示したのは、住民の暮らしや生業を過剰に制約しないことが、景観を守ることにつながるという考え方でした。焼き物の里を見るときには、過去の姿とともに、そこで働き続けるための調整にも目を向けたいところです。

人と暮らし

柳瀬裕之さんが、先代の仕事から学んだこと

小鹿田焼の技は、家ごとに仕事をともにしながら受け継がれてきました。その一例が、『広報ひた』2020年11月1日号で紹介された、柳瀬窯6代目の柳瀬裕之さんです。

柳瀬さんは24歳のころに婿養子として家に入り、先代の柳瀬朝夫さんから作陶を学びました。独り立ちまでは約10年。初めは先代の仕事を見て、まねをしながら器をつくったと、市の取材に答えています。

家を継ぐという言葉の中には、実際の土や器に向き合う、長い学びの時間が含まれています。これは2020年の経験談で、すべての窯元が同じ年数で技を身につけるという意味ではありません。

別の経験を語っているのが、坂本工さんです。三和酒類の2022年6月公開のインタビューでは、高校卒業後にいったん東京へ出たものの、地元に戻って19歳から作陶を始めたと振り返っています。

坂本さんは、息子が家業を好きになれる環境づくりにも気を配ってきたと話しています。技の継承を、道具や手順だけでなく、次の人が仕事とどう向き合うかという問題として考えさせてくれる経験です。

家の前の「ツボ」は、器を乾かす仕事場

皿山では、家の前にある「ツボ」と呼ばれる空地が、器を天日干しする場所になっています。全国文化的景観地区連絡協議会の紹介では、家の南側に設けられる空間として説明されています。

隣の池ノ鶴にもツボがありますが、こちらでは農作物を干します。同じような家の前の空間が、それぞれの生業に応じて使われているのです。

小鹿田皿山の家の前で、板の上に器を並べて乾かす様子
家の前に板を渡し、器を並べた皿山の仕事場。住まいと乾燥の場所の近さが見えます(本文の人物の窯元とは特定していません)。2013年11月13日撮影。写真:STA3816/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。原画像は無加工。

写真からは、日々の暮らしのすぐそばに、器をつくるための場所があることが分かります。

仕事と店

唐臼は、川の水で土を細かくする道具

小鹿田焼の器づくりは、ろくろに土を置く前から始まります。皿山周辺で採った原土を乾かし、川の力を使う唐臼で砕いていきます。

唐臼は、水がたまる重さと、空になったときの動きを利用します。坂本工さんの2022年の説明では、動く順序は次のとおりです。

  1. 木の一端にある水受けへ、川から引いた水がたまります。
  2. 水受けが重くなって下がり、反対側の杵(きね)が上がります。
  3. 水がこぼれると杵が下がり、臼に入れた土を砕きます。

この動きを繰り返して、硬い原土を細かくしていきます。水は材料を洗うだけでなく、土づくりの動力にもなっているわけです。

小鹿田皿山の唐臼。土の入った臼へ木の杵が伸びている
唐臼の土を砕く側。丸い臼と、その中へ下りる杵が見えます。2013年11月13日撮影。写真:STA3816/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。原画像は無加工。

砕いた土が、すぐに器になるわけではない

唐臼で細かくした土は、水と混ぜ、こし、沈め、水分を抜いてから成形に使います。このように水の中で土をより分ける作業を「水簸(すいひ)」と呼びます。

日田市の工程紹介では、水抜きに「オロ」というろ過槽を使い、その後も天日や窯の上で乾燥させると説明されています。土を採る、砕く、水を加える、また水を抜く。ろくろで扱える土にするまでに、いくつもの仕事があるのです。

成形には、足で回す「蹴ろくろ」を使います。形をつくった器は、板に載せて庭で乾かします。写真に写る板は、器を並べて置く場所としても働いています。

板の上に伏せて並べられ、天日干しされる小鹿田焼の器
乾燥中の器を近くから見た写真。器どうしの間隔や、板に並べる様子が分かります。2013年11月23日撮影。写真:STA3816/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。原画像は無加工。

模様と窯元の名前から、つくり方を知る

小鹿田焼の文様には、回転する器に道具を当ててつけるものがあります。飛び鉋は刃で細かな削り目をつける技法、刷毛目は刷毛を使う技法です。「化粧土」は、器の表面にかける色の異なる土を指します。

文様を眺めながら、どんな道具がどの方向に動いたのかを考えると、手仕事の跡が見えてきます。手元に器があれば、色だけでなく、削り目や線の繰り返しにも注目してみてください。

小鹿田焼には、器に窯元の名前を入れない慣行もあります。坂本さんは2022年の取材で、窯元全体でつくるという意識を説明する一方、製造者カードなどで、どの窯元がつくったか分かるようにしているとも話しています。

産地としての共通のつくり方と、一軒ごとに仕事を担う人。その両方が、ひとつの器の背景にあります。

見どころ

登り窯は、斜面に沿って続く形を見る

皿山の登り窯では、薪を焚いて器を焼きます。窯の外から見るときには、斜面に沿って焼く部屋が続く形に注目すると、土づくりから続いてきた仕事の終盤がイメージしやすくなります。

柳瀬裕之さんが2020年の市の取材で紹介した共同窯は、八つの「袋」、つまり焼成室を持つものでした。下から順に焚き上げ、焼く時間は約55時間だったといいます。これはその窯についての経験で、すべての窯の構造や焼成時間を表すものではありません。

小鹿田皿山で斜面に沿って長く続く、屋根に覆われた登り窯の外観
斜面に沿う登り窯の外観。写真の窯を、本文で紹介した柳瀬さんの共同窯と特定したものではありません。2013年11月13日撮影。写真:STA3816/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。原画像は無加工。

唐臼や窯、器を干す庭は仕事の場所です。見学できる範囲は現地の案内に従い、作業場へ入る前や人を撮影する前には確認しましょう。

陶芸館で工程を知り、民陶祭で器に出会う

日田市立小鹿田焼陶芸館には、江戸時代からの器や、製作工程を紹介する展示があります。集落を訪れる際、土づくりや文様の名前を知る入口になります。

2026年10月2日に確認した市の案内では、開館は9〜17時、水曜日と年末年始が休館です。水曜日が祝日なら翌日が休館となり、積雪などによる臨時休館もあります。

同年の第59回小鹿田焼民陶祭は、10月10日(土)・11日(日)、9〜17時に皿山で開催予定です。市の案内では、9軒の窯元が焼き物を展示即売します。

  • 工程を知りたいとき:陶芸館の展示で、土づくりから焼成までをたどります。
  • 景色を読み解きたいとき:川、唐臼、庭、窯が、どの仕事を担うかに注目します。
  • 器を選びたいとき:祭りの開催案内や、各窯元の当日の案内を確認します。

民陶祭には、日田駅からの無料臨時シャトルバスも案内されています。祭り期間の運行なので、通常日の交通と混同せず、出発前に記事末尾の市の最新案内を確認してください。

ほかの町との比較

小石原と比べると、受け継いだ技と窯の違いが見える

福岡県東峰村の小石原焼は、小鹿田焼へ陶工の技術が伝わったとされる産地です。どちらも暮らしの器をつくり、飛び鉋や刷毛目などの技法で知られています。

東峰村の観光案内は、小石原では大正から昭和初めごろまで共同窯で大きな甕や鉢などをつくり、その後、民陶ブームとともに個人の窯元が増えたと説明しています。小鹿田の共同窯の経験と比べると、似た器をつくる産地でも、仕事を続ける仕組みを別々に見ていく必要があると分かります。

比べる点 小鹿田皿山 小石原
産地のつながり 小石原の陶工から技術が伝わったとされる 17世紀後半、伊万里の陶工や高取焼との交流を背景に発展
暮らしの器 農家の甕・鉢・壺などをつくってきた 大型の甕・鉢・皿・すり鉢などをつくってきた
文様 飛び鉋・刷毛目・指描きなど 飛び鉋・刷毛目・櫛目など
窯の使い方の記録 2020年の柳瀬さんの取材に共同窯の具体例 村の観光案内が、共同窯から個人窯への変化を説明

この比較は、両産地のすべての窯元が同じ設備を使うという分類ではありません。似た模様から一歩進んで、誰が、どんな場所で、どのようにつくるかを見るための手がかりです。

皿山の器を支えるのは、陶工の手だけではありません。土を砕く川の力、器を乾かす家の前の空間、窯を焚く木、仕事を学び直しながら継ぐ人。それらのつながりを知ると、器と集落の景色を一緒に眺められるようになります。

土地と仕事の関係をほかの地域でも読みたい方は、木曽平沢の漆器づくりと塗蔵もどうぞ。

この記事は公開資料に基づき、現地・当事者への独自取材は行っていません。写真はすべて2013年11月の撮影で、2026年現在の外観を示すものではありません。