長野県東御市の海野宿には、低い二階の家と、屋根の上に小さな屋根を載せた家が並んでいます。この形の違いは、町の仕事が変わってきた跡です。

江戸時代に旅人を泊めた部屋は、明治になると蚕を育てる「蚕室(さんしつ)」にも使われました。今はガラス工房や宿泊施設として使われる建物もあります。家の形と使い方を一緒に見ると、海野宿の歩みがわかります。

写真はすべて2019年の撮影です。通りの柳は、虫害などによる倒木の危険から2026年6月30日に伐採されました。写真と現在の景観には違いがあります。

町の輪郭

千曲川のそばで、道と家はどう並んでいるのでしょうか

海野宿は、長野県の東部、東御市本海野にある旧北国街道の宿場です。町並みは東西約650mにわたり、南側には農地と千曲川が広がります。

川沿いといっても、家が水際に並んでいるわけではありません。海野地域には、川が削った土地などからなる階段状の地形「河岸段丘」があり、街道の家並みと、その南の低い農地を分けています。

北から南へ 土地の並び方
北側の段丘 国道18号が通ります
一段低い土地 しなの鉄道や畑があり、旧北国街道沿いに町屋と白鳥神社があります
さらに南の低地 水田などの農地が広がり、その先に千曲川が流れます

市の地形説明をもとにした位置関係の整理です。縮尺や建物一軒ごとの位置を示す地図ではありません。

道の中央を流れる水路は「表の川」と呼ばれます。東側では金原川から引いた水が白鳥神社の境内を通り、街道を西へ流れます。かつては生活用水や防災に使われました。千曲川の水をそのまま街道へ引いているわけではありません。

「海野宿」と「本海野」は同じ範囲なのでしょうか

この記事で歩くのは、本海野の中でも海野宿の町並みです。国の重要伝統的建造物群保存地区は13.2haで、本海野全体とは範囲が違います。

東御市が「2026年10月1日現在」として公表した人口表では、本海野区の第1〜7支区を合わせると1,263人、623世帯です。日本人と外国人を含む値で、原表の集計時点は9月末、抽出日は10月1日です。

この人数を、保存地区だけに暮らす人の数とはみなせません。町並みを訪れるときも、公開施設と、普段の生活がある家を分けて見ることが大切です。

歴史と発展

海野宿は、街道のどんな役目を担っていたのでしょうか

海野宿が宿駅として開かれたのは1625年です。北国街道は中山道と北陸を結び、大名の参勤交代や善光寺参り、佐渡からの金の輸送などに使われました。宿場では旅人を泊めるだけでなく、荷物を運ぶ人や馬も手配しました。

当初の海野宿は、隣の田中宿を補う立場でした。ところが1742年の大洪水で田中宿が大きな被害を受け、海野宿に本陣が置かれます。本陣は、大名などの宿泊に使う施設です。

現在の本陣跡では、建物全体が残っているわけではありません。現存する問屋門と石碑から、かつての場所を確かめられます。「昔の宿場が丸ごと残った」と見るより、残ったものと失われたものを分けると、町の変化が見えてきます。

海野宿の本陣跡を示す石碑と問屋門
本陣跡の石碑と問屋門。本陣の建物全体が現存するわけではありません。 撮影:Qurren、2019-05-02/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。縮小・WebP変換。

なぜ旅人の部屋が、蚕を育てる部屋になったのでしょうか

旅籠(はたご)は、一般の旅人を泊める宿です。明治に入り、宿場としての役割が薄れると、その広い部屋が養蚕に使われるようになりました。養蚕は、蚕に桑の葉を与えて繭をつくらせる仕事です。海野では蚕の卵をつくり、売る「蚕種(さんしゅ)業」も発達しました。

養蚕そのものが明治に突然始まったわけではありません。この地域では江戸時代から営まれており、明治には宿場の建物も使いながら、仕事の規模や飼い方が変わっていきました。

1877年ごろからは、桑の切り株を燃やす火鉢で室内を暖める「温室飼育」が行われました。屋根の上の小屋根「気抜き」は、その煙を外へ出すためのものです。下から紐を引き、開け閉めする仕組みが設けられました。

蚕を育てる仕事 家の中で必要になったもの
蚕を棚に並べ、育てる たくさんの棚を置ける部屋
桑の葉を何度も与える 畑から桑を運び、棚を回る作業
火鉢で部屋を暖める 煙を逃がす気抜きと、その開閉

市の歴史計画には、部屋に蚕棚が並び、人がその間で寝るほどだったと記されています。家は暮らしの場であると同時に、毎日何度も世話をする仕事場でした。

海野宿の建物の屋根上にある気抜きと卯建
屋根の上の気抜き。室内を暖める火鉢の煙を逃がすために設けられました。 撮影:Suikotei、2019-04-28/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。縮小・WebP変換。

古い旅籠を使い直す一方で、養蚕のための家も新たに建ちました。背の低い二階を持つ旅籠形式と、蚕室に使う高い二階や気抜きを持つ家が、同じ通りに並んでいるのです。

人と暮らし

蚕を育てる人たちは、どんな働きかけをしたのでしょうか

本海野村に1836年に生まれた矢島行康は、自分でも蚕種の製造に取り組んだ人物です。市の歴史計画によると、1891年には地域の蚕種業者を集め、農商務大臣の陸奥宗光に「蚕業御参考書」という意見書を提出しました。

そこで論じたのは、日本の養蚕をどう育てるか、養蚕家をどう守るかという問題でした。海野の蚕業には、家の中で蚕を育てる仕事だけでなく、業者が集まり、制度について国へ意見を伝える動きもあったのです。

ここで紹介した経緯は市の資料に基づきます。意見書の原物を読んだり、子孫へ取材したりしたものではありません。

古い町並みと行事を、今は誰が支えているのでしょうか

海野宿が国の保存地区に選ばれたのは1987年4月28日です。2022年に市がまとめた報告では、それまでに延べ231棟の修理が行われていました。これは修理の累計で、別々の建物が231棟あるという意味ではありません。

建物を直すだけで、町の暮らしが続くわけでもありません。同じ報告では空き家などの課題を挙げ、2018年2月に地元住民がNPO法人「海野宿トラスト」を設立したことを記しています。

トラストは町の案内や催しを担っています。2026年3月のひな祭りでは、最終日に「狐の嫁入り」の行列が行われ、着物での参加もあったと報告されました。古い通りが、人の集まる場所として使われています。

海野宿東端の白鳥神社の建物と境内の木々
海野宿東端の白鳥神社。祭礼当日の写真ではありません。 撮影:Qurren、2019-05-02/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。縮小・WebP変換。

通りの東端にある白鳥神社も、暮らしと町並みをつなぐ場所です。市の歴史計画には、例祭の際に街道へ12本の幟(のぼり)が立つと記されています。祭りの日の道は、建物を見るための通りから、地域の人が行事を営む場へと姿を変えます。

祭礼の開催日は変わることがあります。過去の計画に載る日付をそのまま訪問予定にせず、トラストなどの新しい案内で確認すると安心です。

仕事と店

胡桃の殻は、どのようにガラスになるのでしょうか

海野宿の「ガラス工房 橙(だいだい)」は、寺西将樹さんと真紀子さんの工房です。1999年10月に開き、ガラスをつくる場所に、作品を見て買える店やカフェを組み合わせています。

工房を代表するものの一つが「胡桃(くるみ)ガラス」です。東御の特産である胡桃の殻を燃やし、その灰をガラスへ溶かし込むと、淡い緑色の器になります。実を食べたあとに残る殻が、器の色を生む材料として使われています。

2014年にNAGANO WINEが掲載したインタビューでは、将樹さんは旧丸子町生まれで、横浜での修業を経て海野宿に工房を開いたと紹介されています。海野宿とのつながりは、出生ではなく、ここでものをつくり、客に届ける仕事にあります。

その取材で将樹さんが語ったのは、作り手と使う人が接する場所を持ちたいという考えでした。2009年には、住まいだった二階をカフェに変えています。器を並べるだけでなく、使う場もつくる。建物の用途を変える工夫が、今の仕事にも見られます。

古い敷地は、今の宿泊にどう生かされているのでしょうか

「海野宿 うんのわ」は、中庭を囲む4棟を生かした滞在型の交流施設です。宿場と養蚕の時代を伝える建物や敷地が、宿泊や飲食に使われています。

市の案内によると、2025年のリニューアルでは客室が増え、土間にはカウンターを設けた空間が整えられました。昔の部屋を保存するだけでなく、今の滞在に必要な使い方を加えています。

2019年の海野宿うんのわの外観
2019年の「うんのわ」。2025年の改修より前の外観です。 撮影:Qurren、2019-05-02/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。縮小・WebP変換。

旅籠の部屋を蚕室にした時代と、現在の工房や宿泊施設では、担う仕事は違います。それでも、建物を使い続けるために用途を考える、という点で町の歩みはつながっています。

営業日や宿泊の受け入れは施設ごとに異なります。ここで紹介したのは2026年10月8日に確認した公式案内で、当日の営業や空室を現地で確認したものではありません。

見どころ

家の中と通りの細部を、どこから見ればよいでしょうか

家の使い方を知る入口になるのが、海野宿資料館です。建物は1790年ごろに建てられた旅籠で、明治には養蚕に使われました。通りで見た屋根や窓を、住まいと仕事の展示に結びつけて考えられます。

海野宿資料館の正面と看板
旅籠から養蚕の家へと使われた海野宿資料館。 撮影:Qurren、2019-05-02/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。縮小・WebP変換。

資料館は2026年4月から開館時間が変わっています。10月の案内は10〜16時、大人250円です。冬には12月21日から2月末まで休館するため、訪問前に公式案内を確認してください。

通りでは、次の三つを比べると家の違いをつかみやすくなります。

  • 二階の高さ:低い二階を持つ旅籠形式と、高い二階を蚕室にした建物を見比べます。
  • 気抜き:大屋根の上に載る小屋根です。室内を暖めながら、煙を外へ逃がす仕事を思い浮かべられます。
  • 海野格子:二階に見られる、長い材と短い材を2本ずつ交互に並べた格子です。
低い二階に長短の格子が並ぶ海野宿の家
低い二階に並ぶ格子。長短の材の組み合わせが見られます。 撮影:Suikotei、2019-04-28/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。縮小・WebP変換。

格子にも、仕事の変化が表れています。市の歴史計画によると、江戸時代の旅籠では、道に面した縁側から客が出入りできました。旅籠をやめて表から客を入れる必要がなくなると、一階にも格子がはめられるようになったといいます。

屋根だけでなく、出入口や窓を見ることでも、「誰を迎え、何をしていた家か」が少しずつわかってきます。公開されていない家は、通りから外観を見るにとどめましょう。

2019年の写真と、今の町で変わったものは何でしょうか

本文の写真に写る柳は、現在の通りをそのまま示すものではありません。海野宿トラストは2026年7月1日、虫害などで内部が空洞化した柳を、市が前日の6月30日に伐採したと報告しています。

古い景観を残すことと、倒木から人を守ること。その両方に向き合う作業も、町並みの手入れです。その後の植栽については、この記事では完了を確認していません。

ほかの町との比較

奈良井宿と比べると、海野宿の何が見えてくるでしょうか

長野県の奈良井宿も、街道沿いに家が並ぶ宿場町です。比較する軸を「旅人を迎える仕事」と「ものをつくる仕事」に置くと、見た目の似た町並みに違いが見えてきます。

比べる点 海野宿 奈良井宿
街道と土地 北国街道、千曲川沿いの段丘 中山道、鳥居峠の北麓
宿以外の主な仕事 養蚕と蚕種業 ヒノキなどを使う木工、漆器、漆を塗った櫛
町を見る手がかり 蚕室に使う二階、気抜き、旅籠の転用 宿場の家並みと、木の道具をつくり商う仕事

奈良井の産業については、塩尻市文化財課による日本遺産の解説をもとにしています。両方の町に、表に挙げたもの以外の仕事もありました。

海野宿で特徴的なのは、蚕を育てる仕事が、部屋の使い方や屋根の形に読み取れることです。今の工房や宿にも目を向ければ、古い家を残すことと、新しい使い道を考えることが一緒に進んでいるとわかります。

町の全体像は海野宿の地域ページ、ほかの土地の仕事は手仕事のテーマからたどれます。