有松の絞りには、布を糸でくくってから染め、ほどくと模様が現れる技法があります。その布を旅人に売った商家が、名古屋の旧東海道に大きな家々を残しました。
旅人が減った明治以降も、売り方や模様を変えて仕事は続きました。街道に面した店の奥と、一枚の布が仕上がるまでをたどると、有松の町並みの見え方も変わります。
町の輪郭
有松は名古屋のどこにあるのでしょう?
有松(ありまつ)は名古屋市緑区にある絞り染めの町です。名鉄名古屋本線の有松駅の南側に、旧東海道の町並みが広がっています。
中心となるのは、祇園寺からまつのね橋までの約800メートル。国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた約7.3ヘクタールは、現在の町名「有松」の一部にあたります。この記事ではその街道沿いと、絞りの仕事でつながる周辺を扱います。
道の北側には手越川、南側には丘が迫ります。町は川の上流部の谷筋に沿った小さな段丘の上にあり、東海道も川と並ぶように緩やかに曲がっています。名古屋市の保存計画はこの地形と古い土地の区切りを町並みの特徴として挙げています。
大きな家の隣に、門や蔵があるのはなぜ?
有松の商家は店を兼ねる主屋だけで敷地いっぱいを埋めてはいません。商品をしまう土蔵、奥へ入る門や塀も街道に面しています。敷地の奥には、客を迎える座敷や庭、作業場を設けた家もありました。
市の調査では、中町から西側の絞商は、川の氾濫の影響を受けにくい南側の平地に屋敷を構えたと考えられています。店の大きさだけでなく、背後の川や丘も土地の使い方に関わっていたのです。
町名・保存地区・かつての有松町は、それぞれ範囲が違います。旧有松町は1964年に名古屋市へ合併しました。後で紹介する人口もこの旧町全体の数字ではありません。
歴史と発展
宿場と宿場の間で、なぜ絞りが育ったのでしょう?
有松の集落が開かれたのは1608年。尾張藩が鳴海宿と池鯉鮒宿(現在の知立)の間に人を移り住まわせました。緑区の案内では「間宿(あいのしゅく)」と呼んでいます。宿場の間で旅人が休む場所です。
ただし、有松は東海道五十三次の宿場ではありません。市の保存計画によると、近くに鳴海宿があり、有松には宿が設けられず、耕作に向く土地も限られていました。旅人を相手にした茶屋や農業だけでは、仕事を広げにくい場所だったのです。
そこで土産物として育ったのが絞り染めでした。阿久比のあたりから移住したと伝わる竹田庄九郎は、その始まりに関わる人物として紹介されています。庄九郎を有松生まれとせず、移住して土地を開いた人として見ると、町の成り立ちがつかめます。
旅人が手ぬぐいや浴衣を買い、藩も絞りを保護しました。店の前を通る人に布を見せて売る仕事が、街道沿いの商家を育てていきます。絞りの起源には伝承も含まれ、開村の1608年をすべての技法の発明年とすることはできません。
大火で、今の町並みが一度にできたのでしょうか?
1784年、有松は大火に見舞われました。現在確認できる古い建物は、この火災より後のものです。
防火のために壁や軒裏を土や漆喰で覆う「塗籠造(ぬりごめづくり)」や瓦屋根が、町並みの特徴になりました。ただ、火災直後にすべての家が今の姿へ変わったわけではありません。
市の保存計画は、復興後の絵図にも草葺き屋根が多く描かれることを指摘しています。現存する建物の調査も合わせ、2階建ての瓦屋根と塗籠造の商家が数多く並ぶようになったのは、幕末ごろと考えています。
旅人が減った後、誰に売る町へ変わりましたか?
明治になると街道の往来が減り、有松だけに認められていた絞りの営業の権利もなくなりました。店先の旅人に売る商売は落ち込み、退いた商家もあります。
その後の立て直しでは、新しい模様や製法を考え、卸売へと売り方を変えていきました。卸売は商品を小売店などにまとめて売る仕事です。通りかかった客を待つだけではない販路が広がり、明治後期から昭和初期にかけて絞りは再び栄えました。
竹田嘉兵衛商店の社史にも、1872年の商店への改組や、1900年のパリ万博への出品が記されています。商いの相手が変わる中でも、布の技法を新しい場へ届けようとしていたことがわかります。
戦後には、仕事場を兼ねた家が住まい専用になる例も増えました。いま残る建物の外観だけから、すべての家で絞りを作っているとは判断できません。
人と暮らし
今の「有松」には、何人が暮らしていますか?
名古屋市の公簿人口では、2026年9月1日現在、町名「有松」に1,091人、529世帯が暮らしています。住民登録にもとづく数字です。保存地区約7.3ヘクタールだけの人口や、有松学区の人口とは異なります。
| 年齢の区分 | 人数 |
|---|---|
| 15歳未満 | 130人 |
| 15〜64歳 | 623人 |
| 65歳以上 | 338人 |
出典は名古屋市「統計なごやweb版」の町・丁目別公簿人口です。高齢の住民も子どももいる町ですが、この表から絞りの職人の人数や、祭りの担い手の年齢まではわかりません。
三つの町内は、どんな場面でつながっていますか?
街道沿いには西町・中町・東町という三つの町内があります。江戸時代から続く地域のまとまりで、それぞれが山車を持っています。
毎年10月の第1日曜日に行われる有松天満社秋季大祭では、西町の神功皇后車、中町の唐子車、東町の布袋車が街道へ出ます。飾られた車を人が曳き、からくり人形や祭りの音楽である囃子(はやし)とともに祭りをつくります。
町並みを残す活動も、住民の取り組みから広がりました。1973年に町家の所有者らが有松まちづくりの会をつくり、翌年には今井町・妻籠の団体と町並み保存連盟を発足させています。
保存は家の外観だけの話ではありません。市は2023年、建物の老朽化や所有者の高齢化で維持が難しくなる状況に対応するため、古民家を使い続ける事業を始めました。人が住み、仕事や活動に使えることも、町並みを残す条件になっています。
染め職人は、どんなことに気を配ってきたのでしょう?
布を染める仕事には、力仕事と細かな色の判断が重なります。浴衣を扱う「つゆくさ」が残した早恒染色の三浦典久さんの記録には、濡れて重くなった布を扱いながら、染料を少しずつ調合し、注文された色見本に合わせていく仕事が紹介されています。
三浦さんは結婚を機に染色の仕事へ入り、義父に学びました。有松とは仕事を受け継いだ縁で結ばれた人です。掲載ページには2013年3月に亡くなったとの追記があり、現在の職人への取材としては扱えません。
くくる人が模様を準備し、染める人がその布に色を入れる。一人の仕事が次の人の仕上がりに関わることを、この記録は具体的に伝えています。
仕事と店
糸でくくると、なぜ白い模様が残るのでしょう?
絞り染めでは、布を糸でしっかりくくった部分に染料が入りにくくなります。染めた後に糸をほどくと、その部分が白く残り、周囲の色との違いが模様になります。
つゆくさの工程紹介では、製造元が図柄を考え、絵師が下絵を描き、型紙を使って白い布へ目印をつけます。くくり職人はその目印に沿ってひだを寄せ、糸を巻いたり針で縫ったりします。
同社はくくりの仕事を基本的に一人一技法と説明しています。一枚の布に複数の技法を入れるなら、それぞれを得意とする人の手が必要になります。分業とは単に作業を小さく分けるだけでなく、異なる技を持つ人へ布を渡すことでもあります。
染め終わっても、そのまま浴衣に仕立てられるわけではありません。乾かして糸を抜くと、布には縮みやひだが残ります。幅を整え、蒸気で伸ばす「湯のし」などを経て、仕立てへ進みます。
仕上げは色や技法により機械を使うこともあり、色止めや糊付けを行わない場合もあります。すべての品が同じ工程、同じ道具で作られるわけではありません。
今の製造元は、染め職人と何を相談していますか?
つゆくさは2025年9月の制作記録で、廃業などをしたメーカーの仕事を引き継ぎ、製造元として染め職人と直接話す機会が増えたと記しています。訪れたのは、有松の保存地区から離れた鳴海駅近くの染め場でした。
準備していたのは2026年の新作浴衣です。まだ染めていない布を前に、出せる色や仕上がりの雰囲気を相談しています。長い板に布を並べ、ジョウロで染料をかける道具も紹介されています。
この例からは、有松絞りの仕事が保存地区の建物の中だけで完結していないこともわかります。製造元が注文や図柄をまとめ、別の場所の職人と仕上がりを合わせていく関係が、今のものづくりにもあります。
町の店では、絞りの何に触れられますか?
竹田嘉兵衛商店は現在も有松で絞りの製造・卸売を行う会社です。古い商家を見ると同時に、布を商品にして届ける仕事の場所として知っておきたい店です。社史には分家や改組の経緯があり、現在の会社が1608年から同じ法人として続く、という意味ではありません。
有松・鳴海絞会館の1階では、浴衣や反物、スカーフ、衣服、袋物などを販売しています。反物は、着物などに仕立てる前の布のことです。上階の実演でくくる動きを見てから商品を見ると、模様の違いを作業の違いとして考えやすくなります。
見どころ
通りを歩くとき、建物のどこを見るとよいでしょう?
街道沿いでは建物ごとの「表側の使い方」に注目してみてください。
- 主屋の店先には、絞りを売るための庇があります。下が土間なので「土庇(どびさし)」と呼ばれます。
- 主屋の脇の蔵や門を見ると、店の奥へ続く敷地の広がりを想像できます。
- 壁や軒裏の塗り込み、屋根の端の小さな袖壁には、防火を考えた建物の工夫が表れています。
外観を見学できても、住居や作業場の中まで自由に入れるわけではありません。営業中の店と、公開施設、個人の住まいを分けて歩くと安心です。
絞りの実演や商家の内部は、いつ見られますか?
2026年10月19日に確認した公式案内は次のとおりです。臨時休館や公開範囲は、訪問前にリンク先でも確認してください。
- 有松・鳴海絞会館(有松3008):9:30〜17:00、実演は16:30まで。年末年始と臨時休館日を除きます。絞り体験は要予約で、平日と土日では内容や持ち帰り方法が異なります。
- 岡家住宅(有松809番地1ほか):土・日曜の10:30〜15:30に暫定公開。年末年始を除き、入館無料です。市が取得した元絞商の家で、江戸末期と推定される主屋などを見学できます。蔵は非公開です。
- 有松山車会館:通常は土・日曜の10:00〜16:00。年末年始と秋季大祭前などは休館し、平日は予約制です。山車や祭礼の資料を見たい人に向いています。
岡家住宅は有松駅から徒歩5分と案内され、駐車場はありません。町歩きの起点には鉄道を使いやすい場所です。体験の時間を含める場合は、通りを歩く時間とは別に予定を組むと、実演や展示を急がず見られます。
ほかの町との比較
同じ東海道の関宿とは、商いの役割がどう違いますか?
三重県亀山市の関宿も、東海道に町家が並ぶ地域です。関宿は1601年に正式な宿駅として整えられ、伊勢別街道や大和街道への分かれ道でもありました。
亀山市が紹介する1843年の記録には、関宿の旅籠が42軒あったとあります。旅籠は旅人を泊めて食事を出す宿です。有松と比べると、同じ街道でも、人を迎える仕事の重心が違っていました。
| 比べるところ | 有松 | 関宿 |
|---|---|---|
| 街道との関係 | 鳴海宿と池鯉鮒宿の間に開かれた集落 | 正式な宿駅で、ほかの街道への分岐点 |
| 旅人との商い | 絞りの手ぬぐいや浴衣などを売る | 旅籠で泊め、食事を出す |
| 家を見る手がかり | 店・商品を収める蔵・奥へ入る門 | 旅籠や町家に残る、旅人を迎えた空間 |
どちらも街道の人通りとともに育った町です。有松では、旅人が買って持ち帰る布と、その布を作る人たちの仕事まで視野に入れると、商家の意味がよくわかります。
通りの外観を眺めた後に、一本の糸が布をどう変えるのかを見る。町並みと手仕事を行き来できるところに、有松を歩く面白さがあります。ものづくりの町や街道の町を比べる入口にもなります。





