関宿(せきじゅく)は、街道の分かれ道で旅人を迎え、その後も商いと暮らしを続けてきた町です。瓦屋根が並ぶ風景の中には、客を泊める部屋、菓子を売る店先、家を直す職人の仕事があります。
古い家には、いまも暮らしや商いがあります。何を残し、どこを変えれば暮らしを続けられるのか。町家のつくりと、仕事を受け継ぐ人の記録から関宿をたどります。
町の輪郭
関宿はどこにあり、どんな道が集まったのでしょうか
関宿は、三重県亀山市の西部、鈴鹿山脈の東のふもとにあります。旧東海道に沿って町家が連なり、東西約1.8km、約25haが国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれています。歴史ある建物と町並みを、地区として守る仕組みです。
町の両端にある追分(おいわけ)は、道が分かれる場所のこと。西追分では大和街道、東追分では伊勢別街道が東海道から分かれていました。江戸と京都を行き来する人に加えて、伊勢を目指す人も関を通ったのです。
| 町の西側 | 町の東側 |
|---|---|
| 西追分 東海道から大和街道が分岐 | 東追分 東海道から伊勢別街道が分岐 |
二つの追分の間を旧東海道がつなぎ、その道に沿って町家が並びます。
同じ通りなのに、家の姿が違うのはなぜでしょうか
市は町並みの特徴を、新所(しんじょ)・中町・木崎・北裏に分けて説明しています。中央の中町には、大きな旅籠や本陣などが集まりました。旅籠(はたご)は旅人を泊める宿、本陣は大名や公家などが使った格式の高い宿です。
新所は関地蔵院の門前を中心に育ち、西へ進むと小ぶりな家の並ぶ住宅地になります。東の木崎には、木の柱を見せた、比較的簡素なつくりの家が多く見られます。北裏には寺社が集まります。
こうした違いは、町の中で担ってきた役割の違いでもあります。通りを歩くときは、屋根の高さや、壁に見えている木の柱にも目を向けてみてください。
歴史と発展
門前の集まりは、どう宿場町になったのでしょうか
宿場が整えられる前から、この場所には関地蔵院を中心とする集まりがありました。市の解説では、16世紀後半に領主の関盛信が道路を改め、新所と木崎の間に中町をつくったと考えられています。
1601年には、徳川家康による宿駅の制度に関宿も組み込まれました。やがて、参勤交代の一行や伊勢参りの人を迎える町として栄えます。町の中央に大きな宿が集まった背景には、こうした人の往来がありました。
市が紹介する1843年の『東海道宿村大概帳』では、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠42軒。家は632戸、人口は1,942人と記されています。これは当時の宿場の記録で、後で紹介する現在の町別人口とは範囲も調べ方も異なります。
旅人は、泊まるほかに何を買ったのでしょうか
関宿では、旅に使う品もつくられていました。その一つが、火を保つための縄である火縄です。
火縄は鉄砲に使うだけではありません。道中でたばこを吸う旅人にも需要があり、新所を中心に数十軒の火縄屋があったと市は説明しています。旅人が通ることは、宿代や食事代だけでなく、道具をつくり、売る仕事にもつながっていました。
いまの町並みを見るとき、すべての建物を「昔の宿」と考える必要はありません。旅籠、商家、職人の家、日々の住まいが、同じ道に面していた町です。
鉄道が通ると、町の商いはどう変わりましたか
明治になって宿駅制度がなくなると、すぐに旅人が消えたわけではありません。市の歴史解説によると、その後も往来は増えていました。大きな転換になったのは、1890年の関西鉄道の開通です。
徒歩の旅人を相手にする商売は打撃を受け、関宿は近隣の人々のための商業地として続いていきます。さらに、国道1号は旧街道から外れた場所を通りました。
ただし、道路の位置だけで町並みが守られたと説明することはできません。1980年に保存会が発足し、1984年に国の保存地区へ選定、翌年から修理事業が始まりました。1988年には中町の約900mで電柱のない景観が整えられています。いま見える姿には、住民と行政が手を入れてきた年月も重なっています。
人と暮らし
格子の向こうでは、どんな暮らしがあったのでしょうか
関宿の町家は、通りに面した幅が狭く、奥へ長く続く敷地が基本です。市の暮らしの解説では、玄関側から奥へ土間が延び、その先に炊事場やかまど、井戸が置かれていました。
部屋の呼び名を知ると、家の中で何をしていたのかが少し見えてきます。
| 場所 | 主な使い方 |
|---|---|
| 通り側の「ミセ」 | 商いをする、客に応対する |
| 中ほどの「ナカノマ」 | ミセとオクノマの間にある部屋 |
| 奥の「オクノマ」「座敷」 | 家の奥に設ける部屋。旅籠では宿泊の場にもなる |
| 通り土間の先 | 炊事や水を使う仕事をする |
これは市の解説に基づく典型的な配置で、どの家も同じ間取りという意味ではありません。大きな旅籠では、家族の居場所や帳場を別に設けることもありました。
二階も、最初からすべて居間だったわけではありません。旅籠を除く多くの家では、低い二階は物をしまう場所でした。明治後期から大正期になると、二階を高くして暮らしに使う家が増えます。窓や屋根の高さの違いには、家の使い方の変化も表れています。
いま、町の周りにはどのくらいの人が暮らしていますか
亀山市の2026年10月1日現在の町別人口から、町並みのある三つの行政町名を見てみます。日本人と外国人を合わせた住民の数です。
| 行政町名 | 人口 | 世帯数 |
|---|---|---|
| 関町新所 | 857人 | 418世帯 |
| 関町中町 | 314人 | 148世帯 |
| 関町木崎 | 1,081人 | 590世帯 |
この表は、保存地区だけの人口ではありません。各町には保存地区の外も含まれます。世帯数から子どものいる家庭の数や、町家に住む人の数を読み取ることもできません。
市が別に集計する「関宿地区」は、関町小野なども含む地域づくりの区域です。同じ「関宿」という名前でも、数字が何を数えているかは異なります。
家の修理と祭りは、誰が受け継いできたのでしょうか
市が2017年1月に取材した大工の金谷彰久さんは、関宿のある地区で大工を営む家に生まれ、子どもの頃からこの町で暮らしてきた人です。当時は四代目として、一般の住宅と歴史的な建物の両方に携わっていました。
その仕事は、外観を昔の姿に戻すことだけではありません。町家の景観を残しながら、断熱性や耐震性を高める修復も行っていると話しています。冬の寒さや地震への備えは、住み続ける人にとって切り離せない問題です。
同じ取材では、家族が地域の人から夏祭りの太鼓を教わったことも紹介されています。建物を直す仕事と、祭りの音を教えること。町を受け継ぐ行為は、家の中にも通りにもあります。家族の状況は取材当時のもので、現在の年齢や暮らしを示すものではありません。
保存会の活動も続いてきました。三重県の紹介では、2024年には子ども向けの体験や関宿のかるた大会が行われ、旧落合家住宅では「夜会(よるかい)」と呼ぶ学びの場も設けられています。町家を守るために、住む人が知り、話し合う機会をつくっています。
仕事と店
「関の戸」の作り方は、どう次の代へ渡されたのでしょうか
中町の深川屋は、餅菓子「関の戸」を作り続ける店です。こしあんを求肥(ぎゅうひ)で包み、和三盆糖をまぶします。求肥は、餅粉などに砂糖を加えて練る、やわらかな餅のことです。
全国銘産菓子工業協同組合の『あじわい』No.212に登場する十四代目、服部吉右衛門亜樹さんは、1964年に関で生まれ育ったと話しています。カナダへの留学、日本橋三越での勤務を経て、家の仕事に入りました。
転機は2009年。父が突然倒れ、一人で餅を炊くことになったものの、思うようにつくれなかったといいます。その経験から、次の代へ渡せるよう、2年間にわたって糖度や温度を記録しました。
さらに2012年には、亀山産の伊勢茶を使った「お茶の香 関の戸」を発売。作り方を伝える工夫と、土地の産物を取り入れる試みが、同じ店で行われてきました。いずれも同誌による取材の内容で、今回新たに聞いた話ではありません。
店先では、瓦屋根の付いた庵看板(いおりかんばん)にも目を向けてみてください。『あじわい』は、京都側と江戸側で「関能戸」「関の戸」と文字が異なることを紹介しています。旅人の目に触れる看板も、街道の店の一部です。
深川屋の所在地は亀山市関町中町387です。Google マップで深川屋を見る。公式案内は9:30〜18:00、菓子が出来上がってから売り切れるまで。木曜休みで、祝日の木曜は営業とされています(2026年10月13日確認)。
古い町家を直すには、どんな仕事が必要ですか
市が公開する保存地区選定40周年の記念誌には、町家を修理する職人の声も載っています。大工の宮崎直樹さんは、育った関に戻り、町中や街道沿いの家の修理に携わってきたと記しています。
そこには、新築とは違う難しさがあります。古い建物を調べ、残る材料や納まりを見ながら手を入れるためです。同誌で金谷さんも、祖父や父が手掛けた家に再び向き合い、以前の大工の技を学び直す仕事を語っています。
左官は土や漆喰を扱い、板金職人は屋根や雨仕舞いを受け持ちます。雨仕舞いとは、雨水を建物の中へ入れず、外へ流すための工夫です。華やかな屋根の飾りだけでなく、壁や樋を手入れする仕事が町家を支えています。
家を使う人がいて、その困りごとに応じて直す人がいる。関宿の町並みは、そうした仕事の積み重ねとしても見ることができます。
見どころ
旅人の宿と、ふつうの町家は、どこで比べられますか
関宿旅籠玉屋歴史資料館は、大きな旅籠だった旧村山家を公開した施設です。旅に関わる資料や生活道具を見ながら、宿泊のために家がどう使われたかを考えられます。
- 所在地:亀山市関町中町444-1
- Google マップで玉屋を見る
関まちなみ資料館は、旧別所家の町家を使った資料館です。町家の暮らしや、町並みの保存を紹介しています。玉屋と組み合わせると、宿と住まい、それぞれの家の使い方に目を向けられます。
- 所在地:亀山市関町中町482(市の文化施設一覧による)
- Google マップで関まちなみ資料館を見る
祭りの日以外にも、山車を見られますか
関の山車会館では、夏祭りに使う山車(やま)と付属品、祭りの歴史資料を展示しています。山車は祭りで曳く大きな車のこと。会館は、その保管だけでなく、お囃子などを伝える活動の拠点として整備されました。
町には四基の山車が残っています。「関の山」という言い回しをこの祭りと結びつける説明もありますが、市が紹介する語源の説として受け止めるのがよさそうです。いつ訪れても祭りの巡行が見られるわけではありません。
- 所在地:亀山市関町中町531
- Google マップで関の山車会館を見る
3館の案内は、2026年10月13日に市の公式ページで確認しました。
- 開館時間:9:00〜16:30
- 休館日:月曜。月曜が祝日・振替休日なら翌日、ほか12月29日〜1月3日
- 玉屋と関まちなみ資料館の2館共通:大人300円、学生・生徒・児童200円
- 山車会館を加えた3館共通:大人500円、学生・生徒・児童300円
祝日の翌日は火曜でも休館になります。訪問前には、末尾の公式案内で臨時の変更も確認してください。
また、通り沿いの建物の多くは、現在も住まいや店として使われています。公開施設と私宅を区別し、道を通る車や家の出入りを妨げないように歩くと、暮らしのある町を訪ねられます。
ほかの町との比較
宿場の家は、旅人が減った後も同じ使い方だったのでしょうか
長野県東御市の海野宿も、街道に沿って旅籠が並んだ町です。しかし、明治以降に家を使い続けた道筋は、関宿とは異なります。
東御市の解説では、海野宿は旅籠の広い部屋を生かして、蚕を育てる養蚕や、蚕の卵を扱う蚕種業へと移りました。建物の屋根にある煙抜きも、蚕を育てるために火を使った仕事と結びついています。
| 比べる点 | 関宿 | 海野宿 |
|---|---|---|
| 宿場を支えた道 | 東海道と、大和・伊勢方面への分岐 | 中山道と北陸方面を結ぶ北国街道 |
| 宿場の役割が変わった後 | 近隣の人々の商業地や住まいとして続く | 旅籠の広い部屋を養蚕・蚕種業に使う |
| 家で注目したいこと | 店先と奥の部屋、二階の高さ、暮らしに合わせた修理 | 広い部屋、屋根の煙抜き、蚕室への変更 |
海野宿の記事では、旅人の部屋が蚕の部屋へ変わった経緯を紹介しています。同じ宿場町でも、残った建物だけでなく、その中で続いた仕事を比べると違いが見えてきます。
関宿では、店先で菓子を売る人、町家を直す人、祭りの音を教える人の営みが、古い道の上で重なっています。格子や瓦屋根を眺めた後に、その家がどう使われているかにも目を向けると、町の輪郭がもう一段はっきりしてきます。





