奈良県橿原市の今井町は、お寺を囲む町から、商いの盛んな町へと育った場所です。曲がる道や町家の造りには、町を守り、商売を営み、家族や働く人が暮らしてきた歴史が残っています。
今も酒造りが続く家があり、古い家を直して新しい住まい手につなぐ活動もあります。町の成り立ちから建物の中の仕事、住み継ぐための工夫まで、順に見ていきましょう。
町の輪郭
飛鳥川の西側に広がる、家と道が近い町
今井町の歴史的な町並みは、橿原市中部を流れる飛鳥川の西側にあります。川にかかる蘇武橋の先に、低い軒と細い通りが続く一角が広がります。
市が紹介する保存地区の広がりは、東西約600メートル、南北約310メートルです。その中にある伝統的建造物は約500件。これには人が暮らす家も含まれます。
ここでいう保存地区と、住所の「今井町1〜4丁目」は、同じ範囲ではありません。この記事では、歴史的な町並みは保存地区を中心に、人口は今井町1〜4丁目の数字として紹介します。
道が少しずつずれるのはなぜ?
今井町の道には、一直線に見通せない曲がりやずれがあります。市の歴史解説は、こうした道と、かつて町を囲んでいた堀や土の囲いを、町を守る仕組みとして紹介しています。
町の姿を調べた市公開の建築史には、東西の通りを中心に、南北の小道がつながる配置が記されています。今井町は、古くからの下つ道の少し西、横大路の少し南にあり、どちらの旧街道にも直接面していません。
街道沿いに家が一列に延びた町とは、道の組み方が違うのです。通りを歩くときは、建物の正面だけでなく、交差点の先に道がどう続くかにも目を向けると、町全体の形が見えてきます。
歴史と発展
お寺を囲む町から、商いの町へ
今井町は、16世紀の天文年間に、称念寺を中心とする「寺内町」として形づくられたと市は説明しています。寺内町とは、お寺とその門徒らが集まり、暮らしや商いを営んだ町のことです。
戦乱の時代、町には堀や土の囲い、出入り口の門が設けられました。信仰の場であると同時に、そこにいる人や物を守る場所でもありました。
転機は1575年です。市公開の建築史によると、今井郷は織田信長から赦免状を受け、やぐらを壊して武力を放棄しました。その後、町は商業の拠点として発展していきます。
江戸時代には肥料、木綿、味噌、酒などの取引に加え、金融業も営まれました。1634年には、町独自の紙幣である「今井札」の発行が認められたと、市の年表に記されています。
町の歴史をたどると、守るためにつくられた区画に、つくる・売る・貸すといった多様な仕事が重なっていったことがわかります。
今西家には、町の運営を担った家の姿が残る
今西家住宅は、1650年の建築と確認されている建物です。市の文化財解説では、建物の年代を記す棟札と、鬼瓦の銘がその根拠とされています。
今西家は、町の運営を担う「惣年寄」の筆頭を代々務めました。住宅には式台という一段高い玄関があり、土間には簡単な裁きを行う場所も設けられていました。家の造りに、町で果たした役割が表れています。
町を守る仕組みは、建物の中だけにあったわけではありません。市公開の建築史が紹介する1703年の記録では、町の門は午後6時から翌朝6時まで閉じられ、主要な四つの門には番人が置かれていました。
商業が栄えた町でも、夜の出入りは管理されていたのです。この建築史は、かつてあった九つの門自体は残っていないとしています。今見える通りの形と、記録に残る門の働きを分けて考えると、町の歴史を具体的に想像できます。
建物を守りながら、暮らしの環境も整える
今井町は1993年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれました。建物一軒ずつに加え、道と家がつくる町並み全体を受け継ぐための制度です。
市の保存整備事務所は、建物の修理や町並みに合わせた外観の整備への助成、電線の地中化、市の施設の維持管理などを担当しています。町家を会議や文化教室などに使う貸室事業もあります。
古い形を残すには、屋根や壁の手入れも、今の生活に合う環境づくりも必要です。今井町の保存は、建物を使いながら次の時代へ渡す仕事でもあります。
人と暮らし
今井町1〜4丁目には、どれくらいの人が暮らす?
橿原市の住所別人口表では、今井町1〜4丁目の人口は、2026年6月30日現在で合計2,113人です。保存地区だけの人数ではなく、その周辺も含む住所別の集計です。
| 住所 | 人口 |
|---|---|
| 今井町1丁目 | 313人 |
| 今井町2丁目 | 355人 |
| 今井町3丁目 | 460人 |
| 今井町4丁目 | 985人 |
| 合計 | 2,113人 |
世帯数は別時点の数字になります。市の令和7年版統計書に載る2026年1月1日現在の表では、同じ1〜4丁目の合計は1,049世帯です。統計書の表題の年度と、表の基準日は異なるため、ここでは原表の日付を示しています。
この二つの数字からも、今井町が多くの人の生活の場であることがわかります。一方、保存地区内だけの世帯数や、空き家に住み手が戻った件数は、これらの表からはわかりません。
町家の近さは、人のつながりにもなる
今井町に移り住んだ遊佐さんは、橿原市の2024年5月更新のインタビューで、近所の人に助けられた経験を語っています。歴史ある建物にひかれ、結婚を機に今井町で暮らすようになった方です。
町家同士の距離が近く、木造の家では生活の音も伝わります。遊佐さんは、子どもが泣くと近所の人が気にかけてくれることも、暮らしの一場面として紹介しています。
これは一人の住民の経験であり、町の全世帯が同じように感じているという意味ではありません。それでも、外から眺める町並みと、そこで暮らす人の毎日がつながる話です。
空き家を「住める家」にするまで
今井町では、空き家があっても、すぐに新しい住まい手へ紹介できるとは限りません。橿原市の2024年5月更新のインタビューで、当時NPOの副理事長を務めていた遊佐さんは、修繕や所有者との話し合いが必要になることを説明しています。
家を残すには、外観を整えるだけでなく、住める状態にし、貸す・借りる人をつなぐ仕事が要るのです。
市の2026年度の団体紹介でも、NPO法人今井まちなみ再生ネットワークは、空き家の再生と移住者の受け入れを中心とした活動を掲げています。昔の家が残っていることと、その家で暮らしを続けられること。その間をつなぐ活動が、今の町を支えています。
仕事と店
河合家では、酒造りと働く人の生活が重なっていた
河合家住宅は、酒造業を営んできた町家です。市の2026年7月更新の文化財解説でも、酒造りが続く家として紹介されています。河合酒造の公式案内では、「出世男」という銘柄を確認できます。
建物で目を引くのは、白い壁の二階に開いた丸窓です。市は主屋を18世紀後半頃の建築とみています。これは現在の主屋の年代であり、酒造りの創業年を表す数字ではありません。
敷地には、酒造りを担う杜氏の宿泊や休憩、風呂などに使った納屋もありました。市は、この建物が19世紀初め頃に改築されたと考えています。
商品をつくる場所には、働く人が休み、寝泊まりする場所も必要でした。町家を一つの住まいとして見るだけでは気づきにくい、仕事と生活の重なりです。
「米忠」は、米屋ではなく金具商だった
旧米谷家住宅の読みは「きゅうこめたにけじゅうたく」です。屋号は「米忠」ですが、市の文化財解説によると営んでいたのは金具商でした。
主屋は江戸時代中期の建物です。五代目の時代に商売が栄えたとみられ、座敷の増築に加え、1849年には内蔵と蔵前座敷も増設されました。家の広がりから、商いが建物に与えた変化をたどれます。
家の東側には、奥へ続く「通り土間」があります。土間は床板を張らない場所のことで、居室とは違う空間をつくります。旧米谷家には、通り土間や煙返しなど、家の中のつくりを知る手がかりが残っています。
同じ町家でも、河合家には酒造りを支える人の設備があり、旧米谷家には金具商の繁栄に伴う増築がありました。窓や屋根に加え、「この家では何の仕事をしていたのか」を知ると、建物ごとの違いが見えてきます。
見どころ
お寺、通り、商家をつなげて見る
今井町では、一軒の建物だけでなく、称念寺と通り、商家の位置関係を見ると、町の成り立ちがつかみやすくなります。
- 称念寺:寺内町の成り立ちを考える中心の場所です。市は現在の本堂を17世紀初期の建築と推定しています。町の成立と、今ある本堂の建築時期は分けて見ます。
- 本町筋と今西家:町の通りと、運営を担った家の関係に注目できます。かつての門がそのまま残っているわけではありません。
- 河合家と旧米谷家:酒造りと金具商という、異なる仕事を営んだ家です。屋号や外観だけでなく、働くために必要だった部屋にも目を向けられます。
建物の中へ入れるかどうかは、それぞれで異なります。外観を見られることと、室内を自由に見学できることは同じではありません。
見学前に、公開範囲を確かめる
橿原市の「今井町の文化財見学について」2026年3月版では、記事で取り上げた住宅の見学方法は次のように案内されています。
| 建物 | 見学方法・公開範囲 |
|---|---|
| 今西家 | 事前の電話申し込みが必要 |
| 河合家(河合酒造) | 申し込み不要。1階店舗は見学無料、2階は非公開 |
| 旧米谷家 | 申し込み不要。昼の休憩時間と休館日あり |
公開時間や休館日は変更される場合があるため、訪問前に末尾の市の案内で確認してください。町内には、普段の住まいとして使われている家もあります。道路は狭いので、市は周辺の駐車場を利用し、町の中は徒歩で散策するよう案内しています。
本記事の写真は、すべて2006年11月の撮影です。建物や通りの特徴を伝える記録として掲載しており、2026年の外観や工事状況を写したものではありません。
ほかの町との比較
富田林と比べると、寺内町の先にある仕事が見えてくる
大阪府の富田林寺内町も、16世紀半ば、お寺を中心に生まれた町です。富田林市の解説では、興正寺別院のもと、近くの四つの村の庄屋ら「八人衆」が町の開発と運営に関わりました。
今井町と同じく、寺内町として始まり、江戸時代には商業が発展しています。ただし、その営みを具体的に見ると違いもあります。
| 比べる点 | 今井町 | 富田林寺内町 |
|---|---|---|
| 町の中心となった寺 | 称念寺 | 興正寺別院 |
| 町の運営を知る手がかり | 惣年寄を務めた今西家と住宅 | 近隣4か村の庄屋ら「八人衆」による合議 |
| 商いを知る手がかり | 肥料・木綿などの取引、酒造り、金融、金具商の町家 | 周辺の米・綿・菜種を扱う商い、東高野街道と石川を使う物流、酒造り |
これは、どちらか一方にしかその仕事がなかった、という分類ではありません。同じ寺内町でも、何を扱い、誰が町を動かし、どんな建物が残ったかを比べるための表です。
町並みの読み方を広げるなら、近江八幡の八幡堀と商家の記事も合わせて読むと、商いと町の形を別の土地から考えられます。
今井町では、曲がる通りに町を守った時代が、商家の部屋に働く人の暮らしが見えてきます。その家を直し、次の住まい手につなぐ活動まで知ると、古い町並みは、今も手をかけながら使われている場所として見えてきます。
この記事は自治体の史料解説、統計原表、事業者の案内、公開インタビューをもとに作成しました。現地・当事者への独自取材は行っていません。保存地区だけの人口、2026年の空き家再生件数や居住者全体の評価は確認できていません。



