爪木は、北浦の岸辺にある小さな地区だ。しかし、その歴史は「湖のそばの農村」という一言では収まらない。海が入り込んでいた時代の地形、埴輪を備えた古墳、古い水田の遺跡、江戸期の土地文書。現在の住所の下には、異なる時代の土地の使い方が重なっている。
君和田という姓がこの土地とどう結びついてきたのか。舟で田に通った暮らしは、道路や仕事の変化でどう変わったのか。人口が減るいま、地域にはどんな活動や商いがあるのか。爪木そのものの記録と、周囲の豊津地区・北浦の歴史を区別しながら、土地、人、仕事の順にたどってみたい。
町の輪郭
爪木の読みは「つまぎ」。住所では茨城県鹿嶋市の大字にあたり、郵便番号は314-0046。独立した町や村ではない。古い資料では「爪木村」、近代の行政資料では「豊津村」の一部として登場する。現在の地域活動で使われる「豊津地区」は大船津なども含み、爪木だけを指す名前ではない。
爪木の田・集落・湖岸を、上から見る写真の上が北



爪木(代表点)歴史と発展
約6,000年前、湖の周囲には海が入り込んでいた
村の始まりを考える前に、村が置かれた地面の成り立ちを見ておきたい。国土交通省の解説によると、約6,000年前の縄文海進では海面が上昇し、現在の霞ヶ浦・北浦につながる谷へ海が入り込んだ。いまの湖岸線をそのまま古代の地図へ写すことはできない。広い入り江があり、海面の変化や土砂の堆積を経て、周辺の低地と水域の形が変わってきた。
爪木という地名も、地形の調査に具体的に現れる。茨城県が1988年に刊行した土地分類基本調査『潮来・八日市場・銚子』は、爪木・延方・下幡木付近に、湾内の沿岸流による「尖角砂州」が形成されたと説明している。砂州は水の働きで砂が集まった地形で、尖角砂州は先がとがるように張り出したものだ。
この説明から、爪木の低地を、ただ平らな土地として見るより一歩深く理解できる。砂が集まって比較的高くなった場所と、周囲の水を受けやすい場所がある。そうした地面の違いは、家を置く場所や田にする場所を考える前提になる。ただし、地形ができた年代と集落が始まった年代は別だ。約6,000年前から「爪木村」があったという話ではない。
古墳と古い水田が伝える、二つの土地の使い方
人の営みを具体的な遺物からたどる手がかりが、爪木1号墳だ。地域の文化財解説によれば、低地に築かれたこの古墳からは円筒埴輪が出土している。焼き方などの特徴から、6世紀のものと考えられているという。埴輪には粘土の違いがあり、解説は複数の窯で作られた可能性にも触れている。
古墳があるというだけで、被葬者の名前や支配した範囲までは分からない。それでも、埴輪を作る技術、運ぶ仕事、墓を築く労力を伴う営みが、この低地で行われたことは見えてくる。現在の人口の小ささを、そのまま古代の土地の重要度に置き換えることはできない。
爪木地区の宮中条里遺跡からは、古墳時代の祭祀に用いられた「子持勾玉」も見つかっている。大きな勾玉に小さな勾玉を付けた形の石製品だ。鹿嶋市は出土品を文化財に指定し、爪木地区出土の一つについて、鹿嶋市どきどきセンターで常設展示していると案内している。
もう一つの手がかりは、低地に残る水田の跡だ。鹿嶋市の文化財を扱う事業団は、北浦湖岸の条里遺跡について、区画された水田や畝、溝が調査で見つかったと紹介している。条里とは、古代の土地を一定の区画に分ける仕組みをいう。その解説には爪木地区の調査写真も掲載されている。
1984年刊行の『鹿島湖岸北部条里遺跡Ⅴ 宮中条里遺跡爪木Ⅱ地区』の書誌・遺跡情報でも、爪木の湖岸水田遺跡は奈良・平安時代の遺跡として登録されている。ここでは発掘報告書本文ではなく、全国遺跡報告総覧の公開情報を参照した。
墓や祭祀の遺物と、耕作の痕跡。同じ爪木周辺の低地に、死者を葬り、祈り、食べ物を作る営みがあった。ただし、それぞれの遺跡を一直線につないで、同じ家系が今日まで住み続けたと証明することはできない。古代の歴史は、現在の村の系図というより、この土地が人に使われてきた長さを示している。
江戸時代の爪木は、誰の領地だったのか
文書に記された村の姿は、戦国時代の末までさかのぼれる。平凡社『日本歴史地名大系』の「爪木村」項目は、1591年に佐竹氏一族の東義久の知行になったと記す。知行とは、領主が土地を支配し、そこから収入を得る権利に関わる言葉だ。
江戸初期の1633年の記録では「妻木村」と表記され、石高は291石余。旗本の小川氏と中島氏の支配下にあったとされる。石高は土地の生産力を米の量で表した評価で、人口や、その年に実際に収穫した米の総量ではない。村の名前は今につながっていても、表記や領主の仕組みは現在の住所とは違っていた。
1730年の爪木村の土地帳簿も紹介されている。中島領の田と高請人、つまり土地の年貢負担に関わる人々を記したものだ。ここから見える江戸の村は、景色としての田園だけではない。土地ごとの負担を割り振り、領主へ年貢を納める仕組みの中で暮らす村だった。
古墳・水田遺跡と、この近世の村の間には、今回の資料だけでは埋まらない時代がある。中世の村の構成や、いつ現在の集落配置になったかは、さらに史料を必要とする。それでも「江戸から始まった新しい村」と決めつけるのも、「古代以来、同じ村がそのまま続いた」とするのも、どちらも資料が示す以上の話になる。
舟を田へ入れ、農閑期に学ぶ暮らし
村の仕事を理解する鍵は、米作りと水の道にある。鹿嶋市の地誌解説は、爪木と大船津を含む旧豊津村で稲作が営まれ、大船津から爪木にかけて、湖から直接掘り込んだ「江間(えんま)」があったと伝える。舟を入れる水路であり、舟だまりにもなる場所だった。
農舟を使えば、農作業の荷物を水上で運べる。現在の道路地図では陸と水が別々に見えるが、当時は湖から田へ続く動線があった。爪木の農業を考えるとき、田の広さだけでなく、そこへどう行き、収穫物や資材をどう運ぶかまで見る必要がある。
水は便利なだけでもなかった。市の解説には、旧豊津村地域で洪水によって田畑が冠水し、収穫を失った場所があったことも記される。同じ低さが、水を使いやすくする一方で、水位の変化を受けやすくしていた。
子どもの学びにも農業の時間が関わっていた。爪木には「松岡塾」があり、農閑期に子どもが自分の机を持ち寄って学んだという。参照した解説ではその時期を特定できないが、農作業が少ない季節に学ぶという記録から、暮らしの予定が農業の繁閑と結びついていたことが分かる。
地域の記念誌に紹介された『爪木畧誌』は、集落が岡町、谷原町、原町へと開けたという推測や、地名を柴の薪に結びつける説も伝えている。いずれも確定した地名起源ではない。それでも、爪木という一つの住所の内側に、住民が区別してきた小さな場所の名前があることは、村の細かな広がりを知る手がかりになる。
明治の村、戦後の仕事――景色と働き方は同じ速さでは変わらない
1889年、爪木村は大船津村や鹿野村の新田地区とともに豊津村を構成することになった。その豊津村も1954年には周辺町村と合併し、鹿島町へ。1995年には鹿島町と大野村が合併し、鹿嶋市となった。
土地の前史から、いまの住所へ時代ごとに、何が確認できるか
- 約6,000年前海が入り込む現在の霞ヶ浦・北浦周辺の広域史。爪木村の成立時期ではない。
- 古墳時代墓と祈りの痕跡爪木の古墳・子持勾玉。1号墳の埴輪を6世紀とする解説がある。
- 奈良・平安時代湖岸の水田爪木の水田遺跡が発掘調査の公開情報に登録される。
- 1591・1633年文書に現れる村領主の支配と石高。1730年の土地帳簿には君和田家文書の表示。
- 1889年豊津村の一部に爪木村は大船津村などとともに豊津村を構成する。
- 1929年周辺の交通が変わる隣の大船津に神宮橋。港・渡船の時代から橋のある暮らしへ。
- 1954・1995年鹿島町から鹿嶋市へ町村合併を経て、現在の鹿嶋市の住所につながる。
働き方の変化は、豊津地区の2024年コミュニティプランから見えてくる。この計画は、鹿島開発によって豊津地区でも就労先が増え、稲作中心の農業から第二次・第三次産業へ就業の重心が移ったと説明する。一方、建物などの見た目は比較的変化が少なかったとも記している。
田のある景色が残っていても、そこに住む人の勤め先や日々の時間割が昔のままとは限らない。爪木を含む豊津地区では、農村の景観と、地域外を含む仕事先を持つ生活が重なってきたと読める。ただし、現在の爪木だけの職業別構成は確認できておらず、住民の多くを農家や工場勤務者と一括りにはできない。
人と暮らし
君和田姓が多いのはなぜか――土地文書と地域史に残る名前
爪木を知るうえで、君和田という姓は気になる手がかりだ。『日本歴史地名大系』が挙げる1730年の土地帳簿には、所蔵・伝来資料として「君和田家文書」と付記されている。江戸期の村の土地に関わる文書が、君和田家に伝わる資料として参照されているのである。
近代以降の地域史にも同じ姓が現れる。『豊津地区まちづくり委員会10年のあゆみ』は、元豊津村長の君和田源司が寄稿した『爪木畧誌』を紹介している。この人物は、村の行政に関わっただけでなく、爪木の来歴を書き残した人としても位置づけられる。
こうした記録は、君和田姓を持つ家と土地との関わりを考える具体的な入口になる。一方、「君和田家文書」があることは、爪木の君和田姓がすべて同じ祖先から出た証拠ではない。姓が生まれた時期、家同士のつながり、分家の広がりは、それぞれ別に確かめる必要がある。
同姓の家が一地域に集まる背景として、長く住む家から分家が増えた可能性は考えられる。しかし、爪木でそれがどのように起きたかは、今回確認した公開資料では分からない。現在の姓別人口の公的集計も得られていないため、「住民の何割が君和田姓」といった数字は出せない。
民間の日本姓氏語源辞典にも爪木との結びつきが記されているが、姓の由来の説明には推定が含まれる。字面からもっともらしい起源を作るより、家に残る系図や過去帳、村の土地文書、聞き書きを突き合わせることが次の手がかりになる。現時点で言えるのは、君和田という姓が、爪木の歴史を記録し伝える資料の中にも現れるということだ。
地域に関わる人物
「爪木出身の有名人はいるか」という問いについては、今回確認した公開資料の範囲では、爪木出身と裏付けられる全国的な著名人を特定できなかった。鹿嶋市出身であることや、君和田姓であることだけでは、爪木出身とは言えない。一方で、地域史を残した君和田源司、商いを続ける企業、交流の場を作る店の運営者は、この土地で何が行われてきたかを知る具体的な人物・組織である。出生地と活動地を区別して紹介したい。
人形送りに残る、隣の家を引き受ける役目
村の雰囲気を知りたいとき、資料から分かるのは住民全体の「性格」よりも、何を一緒に行い、誰がどんな役目を担ったかだ。爪木の「人形送り」は、その一例になる。
鹿嶋市の記録によると、各家で竹と藁の武者人形を作り、刀、弁当、路銀を持たせた。家の中を払って送り出した人形は熊野神社前へ集められ、宮中との村境に立てられた。家内安全や災厄を払う願いを、人形の旅に託した行事である。
行事の日を決める「法眼様」と呼ばれる世話役がいた。出られない家は人形を門口に置き、近所の人がその分も運んだという。参加者だけで行列が完結せず、その場に来られない家にも役割がつながっていた。
この記録から「爪木の人は皆、親切だ」と性格を決めることはできない。読み取れるのは、家で用意する仕事、日を決める仕事、隣家の分を運ぶ仕事を分けて、共同の行事を成り立たせていたことだ。また、古代の子持勾玉と人形送りは、ともに祈りに関わる資料ではあるが、両者が直接受け継がれた証拠はない。人形送りの現在の継続状況も未確認である。
人形送りを支えた、家と村の役割市の記録に残る行事の流れ
- 各家人形を作り、家内安全を祈る
- 熊野神社前人形を持ち寄り、集まる
- 村境人形を立て、災厄を払う願いを託す
日を決めるのは「法眼様」。参加できない家の人形は、近所の人が運んだ。
いまの人口と、学校をめぐる変化
爪木の人口は、地域の記念誌に載る2014年4月1日には407人・134世帯、市の2026年9月1日の公表値では296人・128世帯だった。いずれも外国人を含む住民基本台帳の集計で、比較した二時点では111人、約27%少なくなっている。
世帯数の差は6世帯と、人数の差に比べて小さい。人口を世帯数で割ると、1世帯あたりは約3.04人から約2.31人になる。これは世帯の規模が小さくなったことを示すが、高齢者の単身世帯が何戸あるかや、若者がどれだけ転出したかを、この表だけで説明することはできない。
人数は減り、世帯数の変化は小さい爪木の住民基本台帳人口・世帯数(外国人を含む)
人口目盛り:0〜500人
111人減少(約27%)
世帯数目盛り:0〜150世帯
6世帯減少
周辺を含む豊津地区の状況と比較すると、課題の輪郭はもう少し見える。2023年4月1日時点で、豊津地区の65歳以上の割合は41.4%、市全体では32.3%だった。自治会加入率は豊津地区60.5%、市全体43.5%。いずれも2024年コミュニティプランの掲載値で、爪木単独の割合ではない。高齢化が進む一方で、地区の組織への参加も市全体より高い、という二つの側面がある。
学校にも変化が予定されている。市が2025年12月に公表した計画では、豊津小学校は2028年3月31日に閉校し、児童は鹿島小学校へ編入する。隣接学区への就学を希望する場合は認めるとしている。これは2026年9月現在の計画で、すでに閉校したわけではない。なお、爪木の一部は豊郷小学校の通学区域に含まれるため、豊津小学校の話を爪木の全児童の話として扱うこともできない。
地域活動が止まっているわけではない。2026年の市の報告には、第44回北浦一周サイクリングが載る。豊津小学校PTOとまちづくり委員会が共催し、子ども13人と保護者10人が参加した。報告には爪木の水田の写真もあり、地域の景色が子どもたちの活動の場になっていることが分かる。
少人数でも共同の活動を続けていることと、学校のまとまり方が変わることは同時に起きている。今後を考える問いは、人口が増えるか減るかだけではない。通う学校が変わっても、子どもと地域の大人が出会う機会をどこで作るのか。爪木の現在を知るには、そうした具体的な場にも目を向けたい。
仕事と店
爪木の住所を持つ企業として挙げられるのが、米菓メーカーの鹿島米菓だ。本社所在地は爪木522。公式沿革によると、1948年に食品の製造販売を始め、1955年にうるち米の煎餅、1975年におかき・たがねの製造へ進んだ。株式会社の設立は2010年で、創業とは別の時点になる。
代表的な商品は、手揚げもちの「いぶし銀」。会社は、家庭で鏡餅を揚げて作ったおかきの味を原点として紹介している。土地の仕事を米の生産だけで終わらせず、米を加工し、菓子として届ける仕事まで視野に入れると、爪木の産業の見え方も広がる。ただし、原料米が爪木産かどうかは確認できておらず、地域内で生産から加工まで完結しているという説明はできない。商品情報や店舗の公式サイトは、記事末尾の参考資料にまとめた。
湖との関わりを別の形で示すのが、「cafe&camp ツマギアンズ」だ。公式サイトでは爪木233-1に位置し、北浦を望むカフェ、キャンプ、サウナなどを案内している。運営者の山町浩信は、地元で人と人が交流できる場所を作るという趣旨を掲げている。農業や運搬のために水辺を使う歴史に、景色を楽しみ、人が集う使い方が重なる。
食では、同店の「シン・かしまし豚丼」も手がかりになる。茨城県の2024年のグルメイベント記録は、鹿嶋市の出品料理として紹介し、地元ブランド豚の使用と料理人・西芳照の監修を記している。地域の商品や料理人の仕事と、爪木の店がつながる例だ。過去のイベント記録と、現在の通常メニューは分けて確認したい。店は予約制を案内しているため、訪問時は公式の営業・予約情報を参照できる。
見どころ
歴史を知ってから見ると、同じ湖岸でも着目するものが変わる。爪木の中と、周辺の理解を助ける場所を分けて挙げておこう。
| 場所・手がかり | 何を見るか |
|---|---|
| 北浦の湖岸・爪木周辺 | 湖と田の近さ、土地の高低。昔の江間がどこに残るかは別途確認が必要だが、水のある場所と人の仕事の関係を考える入口になる |
| 熊野神社(爪木450) | 人形送りの記録に登場する、地区の祈りの場。茨城県神社庁の所在地一覧で確認できる |
| 鹿島米菓・ツマギアンズ | 米を加工する仕事と、湖の景色を楽しむ場。商品や予約はそれぞれの公式サイトへ |
| 鹿嶋市どきどきセンター(爪木の外) | 爪木地区で出土した子持勾玉を含む、地域の考古資料。市の文化財ページに展示案内がある |
| 西の一之鳥居・大船津(隣接地域) | 舟で鹿島神宮へ向かった時代の玄関口。爪木の農耕の歴史と、港の歴史を重ねて理解できる |
爪木1号墳は歴史を知る重要な手がかりだが、今回の調査では、現地が見学用に整備されているかを確認できなかった。遺跡の所在地を、そのまま観光の立ち寄り先として案内してはいない。出土品の解説や展示を通じて知る方法もある。
北浦の湖岸には、生物を調べる視点もある。環境省の報告書では、爪木ノ鼻の北東側に設けた「北浦爪木サイト」で2015年に魚類調査が行われ、26種が確認された。ニホンウナギ、ミナミメダカ、ワカサギなどとともに、国外外来種も記録されている。当時の調査区の結果であり、現在そこへ行けば全種を見られるという意味ではない。
ほかの町との比較
同じ水郷の地域でも、水の使われ方は一様ではない。爪木と隣接する大船津は、鹿島神宮へ向かう参詣者を迎える港だった。豊津地区の計画は、1929年に神宮橋ができるまで船着場としてにぎわったと記す。爪木と大船津はともに農業の歴史を持つが、大船津には人の移動を受け止める玄関口という役割が重なっている。
もう少し広く見ると、千葉県香取市の佐原は水運によって商業が栄え、小野川沿いや香取街道に商家の町並みが残る。現在も家業を継いで営業する商家があることを、香取市は町並みの特徴として紹介している。
| 比べる地域 | 水辺の歴史を読み解く入口 |
|---|---|
| 爪木 | 古い水田の遺跡、田へ舟を入れる江間。湖岸で耕作し、荷物を運ぶ暮らし |
| 大船津(鹿嶋市) | 港と鹿島神宮参詣。対岸や遠方から来る人を迎える場所 |
| 佐原(香取市) | 水運と商業。商家の建物や、引き継がれた家業に残る歴史 |
これは地域の役割を三つに切り分ける分類ではなく、それぞれの資料で目立つ営みを比較したものだ。どの土地にも複数の仕事がある。比較してみると、爪木を読むときには、建物の見どころだけでなく、田と水の距離、集落内の役割分担、米を扱う仕事へ目を向けるとよいことが分かる。
爪木を長い時間の中に置くと、湖岸に田がある風景の奥行きが増す。海と砂が形づくった土地に、墓と水田の痕跡が残り、領主へ年貢を納める村があり、舟で農作業を支える暮らしがあった。そこへ、働く場所の変化、米菓の製造、湖畔の店、学校をめぐる新しい課題が重なっている。
田園が残ることと、生活が変化しないことは同じではない。君和田家に伝わる文書も、村の来歴を書いた人も、今日の商いも、それぞれ別の角度から爪木を伝えている。これらを一緒に見ると、爪木は、古いものが置かれたままの村ではなく、同じ湖岸で仕事と人の集まり方を変えてきた土地として見えてくる。




