吹屋の赤い格子を見ていると、その色がかつて町の商品だったことに気づきます。山から原料を得て、赤い顔料をつくり、遠くの焼き物や漆器の産地へ届ける。そんな仕事が、商家の並ぶ通りを育てました。

岡山県高梁市の吹屋では、銅山も昔ながらのベンガラ生産も、すでに役目を終えています。それでも町には、道具を見せる場所、色を体験に変える店、家や学校を使い続けようとする人たちがいます。

赤い景色の向こうにある仕事と、今の暮らしをたどってみましょう。

町の輪郭

山の中に、どうして商家の通りができたのでしょうか

吹屋は岡山県西部、高梁市成羽町の山あいにあります。吉備高原に位置し、市の地名解説では標高約500メートルの地域として紹介されています。

中心にあるのは、吹屋往来と呼ばれた道に沿う町並みです。往来は備後の東城、現在の広島県庄原市側と、備中の成羽を結んでいました。鉱山の仕事だけでなく、物を運び、人が行き来する道も、この町の土台だったのです。

この記事では、下谷・下町・中町・千枚へと続く町並みと、旧小学校や周辺の産業遺産を扱います。「成羽町吹屋」という住所の範囲と、歴史的な建物を守る保存地区は、同じものではありません。

赤茶色の瓦屋根と格子のある商家が道に沿って並ぶ吹屋の通り
吹屋の町並み。建物が道へ顔を向け、店先が連なります。2006年9月30日撮影。撮影:663highland/Wikimedia Commons/CC BY 2.5。縦横比を保って縮小しWebP化。現在の店舗営業を示す写真ではありません。

赤い瓦と格子は、同じ色づけなのでしょうか

町並みの赤を、すべてベンガラを塗った色だと思うと、少し見誤ります。屋根には赤茶色の石州瓦、木の格子にはベンガラが使われています。石州は現在の島根県西部にあたる地域の呼び名です。

高梁市の町並み調査の解説は、瓦にも黒っぽいものから黄色みのあるものまで色の違いがあると記しています。壁も白い漆喰、板壁、赤土を使った壁など、ひとつの仕上げではありません。

屋根、格子、壁を分けて見ると、吹屋の景色は「全部が同じ赤」ではなく、材料と仕事の違いが重なったものだと分かります。大きな商家のそばに日用品の店や宿があったことも、通りの奥行きを知る手がかりになります。

歴史と発展

銅を掘る仕事と、赤い顔料づくりはどうつながったのでしょうか

吹屋の銅山には、807年に始まったという伝承があります。ただし、市の歴史的風致維持向上計画も起源には諸説があるとしています。ここでは、町の仕事が具体的にたどれる江戸時代以降を中心に見ていきます。

銅山の経営では、地下にたまる水をどう排出するかが大きな問題でした。地元の大塚家が請け負った時代にも、新たな排水路のために資金を調達した記録が、市の計画で紹介されています。鉱石があれば、いつでも掘り続けられたわけではありません。

江戸時代中期には、もうひとつの仕事、ベンガラづくりが発展します。ベンガラは鉄の酸化物を主成分とする赤い顔料です。銅そのものを砕いて赤くしたものではありません。

周辺で得られる硫化鉄鉱から、緑礬(ろうは)という硫酸鉄の結晶をつくり、それを加工して赤い粉にしました。原料づくりを担う周辺の家々と、吹屋の製造・販売の家々がつながっていたのです。

仕事の段階 何をしていたか 町とのつながり
原料を用意する 硫化鉄鉱から緑礬をつくる 坂本の西江家など、周辺の生産者から吹屋へ
色を仕上げる 緑礬を加熱し、水洗いや粉砕などを重ねる 赤い粉の細かさや質を整える
売り、運ぶ 顔料として各地へ出荷する 陶磁器の絵付け、漆器、建物や船の塗装などに使われる

これは市の日本遺産解説と材料研究の論文をもとに、仕事のつながりを整理した表です。細かな工程や設備をすべて示した製造手順ではありません。

ベンガラ館に展示されている赤く色づいた石臼状の道具と木の桶
ベンガラ館の製造道具。建物は明治期の工場を復元したもので、観光協会は当時使われた道具を展示していると説明しています。2006年9月30日撮影。撮影:663highland/Wikimedia Commons/CC BY 2.5。縮小・WebP化。写真は稼働中の工場ではありません。

遠くへ運ぶ仕組みは、どう変わったのでしょうか

山の中で生まれた品物は、山の中だけで売られていたわけではありません。市の笹畝坑道の解説によると、江戸時代の銅は馬で成羽の下原へ運び、そこから高瀬舟という川舟で玉島港へ、さらに海路で大阪へ送っていました。

1873年に三菱が銅山の経営に入り、排水や製錬の設備を近代化します。1908年にはトロッコによる大量輸送も実現しました。人や馬の運搬、川の舟、機械による輸送へと、運ぶ方法も変わっていきます。

ただ、その後も成長が続いたわけではありません。鉱山は1931年に閉山し、戦後の1950年に再開した後、1972年に再び閉じました。今の町を理解するには、繁栄だけでなく、仕事が途切れた時期も見る必要があります。

ベンガラづくりは、なぜ昔のまま続かなかったのでしょうか

材料研究者の髙田潤さんと中西真さんによる2017年の解説論文は、従来の吹屋ベンガラの生産が1965年に停止したと記しています。製造時の酸性ガスや強い酸性の排水が、公害防止の面で問題になったためです。

赤い色を生んだ技術には、環境への負担もありました。町並みの美しさだけでは見えにくい、生産のもう一面です。

1965年の従来製法による生産停止と、1972年の銅山閉山は、別の出来事です。また、製造が止まる年と個々の商家の廃業年も一致するとは限りません。

その後、1977年に吹屋は国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれます。産業の建物を壊さず残すことが、町の新しい仕事になっていきました。

人と暮らし

今の吹屋には、どれくらいの人が暮らしているのでしょうか

高梁市が公表した2026年9月30日現在の住民基本台帳の表では、成羽町吹屋の人口は108人、65歳以上は59人です。外国人住民を含めた値で、町並み保存地区だけの人数ではありません。

世帯数は、日本人のいる世帯70、外国人のいる世帯1、その両方を含む混合世帯1と記載されています。重複を除くと70世帯です。ひとり暮らしや家族構成の内訳までは、この表から分かりません。

数字は、今の地域の規模を知る手がかりになります。一方、そこから住民の働き方や気持ちまで決めつけることはできません。町を受け継ぐ具体的な動きは、学校や地域団体の記録から見えてきます。

閉校した小学校は、どう受け継がれたのでしょうか

旧吹屋小学校は、1900年に東西の校舎、1909年に本館が建てられました。設計には、岡山県の建築技術者だった江川三郎八が関わっています。吹屋出身の人物という意味ではなく、この土地に建物を残した人です。

本館を中央に、左右へ校舎が伸びる形が特徴です。屋根を支える部分には、三角形を組み合わせるトラス構造が使われています。外観の懐かしさに加えて、広い空間を木で支える工夫にも目を向けられます。

石段の上に建ち、左右に木造校舎が伸びる吹屋小学校
閉校前の吹屋小学校。2006年9月30日撮影で、2015〜2022年の保存修理より前の姿です。撮影:663highland/Wikimedia Commons/CC BY 2.5。縮小・WebP化。

公式案内によると、1918年には児童数が最多の369人に達しました。これは当時の学校の児童数で、現在の成羽町吹屋の人口と直接比べる数字ではありません。

学校は2012年に閉校しました。その後、建物を解体して修理し、地盤や構造を補強する工事を経て、2022年4月に公開施設として再出発しています。子どもが学んだ場所を、地域の歴史を知る場所へと使い直した例です。

家を守るだけでなく、暮らす人を迎えるには

1978年に発足した吹屋町並保存会は、建物の保存に取り組んできました。市の2020年の計画には、修復する家の選定、清掃、説明看板の整備、防災訓練といった活動が記されています。町並みを守る仕事には、毎日の手入れも含まれます。

別の取り組みとして、「吹屋に住んでみん会」の活動もあります。市が公開している「2024年4月〜活動実績報告」では、移住者や地域内外の若者が集まる会議、歴史の聞き取り、暮らしを伝える記事や冊子の制作を報告しています。

報告時点で、空き家2件の入居者が決まり、3人の移住につながったとされています。2026年現在の累計ではありませんが、景色を紹介するだけでなく、住む人を迎えるために何をしたかが分かる記録です。

赤い町並みは、お祭りではどんな姿になるのでしょうか

町の色は、建物だけに使われてきたわけではありません。高梁市の広報2015年10月号は、中野吹屋青年団が主催した「吹屋ベンガラ灯り」を記録しています。

吹屋出身の水野由美さんが作詞・作曲した「吹屋小唄」に合わせ、ベンガラ染めの衣装で踊り、通りには手づくりの灯籠を並べたと紹介されています。顔料だった赤が、町を表す衣装や行事にもつながっています。

これは2015年の開催記録です。今年の開催日や、古くから同じ形で途切れず続いてきた祭礼を示すものではありません。

仕事と店

片山家は、赤い粉をどう商っていたのでしょうか

旧片山家住宅は、ベンガラの製造・販売を手がけた「本片山」の家です。1759年の創業以来、家業の拡大に合わせて住まいも大きくなりました。

市の計画には、最盛期に3か所の工場を動かし、東京や大阪、名古屋などへ出荷していたと記されています。顔料は九谷焼や伊万里焼の赤絵、輪島塗の朱漆にも使われました。山里の商家と、離れた土地のものづくりが結ばれていたのです。

旧片山家住宅の主屋内部。畳の部屋と建具が奥へ続く
旧片山家住宅の主屋内部。品物を売った家には、住まいとしての空間も残ります。2015年9月25日撮影。撮影:FUKIYA TouristAssociation/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。WebP化。元の縦横比・画素数を維持。

通りには片山家の分家もありました。現在の郷土館は、ベンガラを販売した角片山の住宅です。製造と販売、本家と分家という関係を知ると、隣り合う立派な家々も、ひとつひとつ違う役割を持っていたと分かります。

今のベンガラの店は、何を受け継いでいるのでしょうか

町内の麻田百貨店は、ベンガラ製品や土産品を販売する店です。公式案内では1902年創業とし、代表者は麻田修司さんと記されています。これは店の創業年で、現在の合同会社の設立年を示すものではありません。

注目したいのは、販売する顔料についての説明です。同店は、昔の吹屋ベンガラの成分を調べ、現代の製法で近づけた岡山産の復刻版だと案内しています。昔の鉱山と工場が、そのまま今も動いているという意味ではありません。

店のベンガラ染め体験では、顔料と湧水、大豆の豆汁を使い、布に色をつけます。歴史を読むだけでなく、自分で色に触れられる入り口です。

2026年10月11日に確認した案内では、次の点を押さえておくと利用しやすくなります。

  • 体験は前日までの予約が基本です。当日希望は店へ相談します。
  • 染めた品は色を定着させる工程があるため、後日発送です。送料は別にかかります。
  • 営業案内は10時30分〜17時、不定休です。時期による変更があるため、体験場所と日時を予約時に確認してください。

昔は各地の作り手へ色を売り、今は訪れた人が色を使う場もつくる。同じ赤でも、商いの形は変わっています。

見どころ

商家では、通り側と家の奥を見比べてみませんか

まず訪ねたいのは、町並みの中にある旧片山家住宅と郷土館です。通りから格子や屋根を見たあと、公開されている内部へ進むと、商家の大きさや部屋のつながりが分かります。

格子が続く旧片山家住宅の正面と赤茶色の瓦屋根
旧片山家住宅の通り側。2015年7月29日撮影。撮影:FUKIYA TouristAssociation/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。縦横比を保って縮小しWebP化。

2026年10月11日時点の観光協会案内では、4〜11月は10〜17時、12〜3月は10〜16時です。ただし、冬の郷土館は土・日・月・祝日の開館で、旧片山家住宅とは開館日が異なります。年末年始は12月29日〜1月3日が休館です。

旧小学校も、町歩きに組み合わせやすい場所です。学校専用の一般駐車場はないため、公式案内は下町観光駐車場の利用を勧めています。町並みには今も暮らしの場があるので、公開施設の入口を確かめ、住宅や私有地へは入らずに楽しみましょう。

吹屋の町並みをGoogleマップで見る

原料と製造の跡を見たいときは、どこへ行けばよいでしょうか

ベンガラ館は、町並みから周辺の産業の場所へ足を延ばす見学先です。復元された工場で道具を見ると、「赤い粉をつくる」という短い言葉の裏に、加熱や水洗い、粉を整える仕事があったことが分かります。

山の斜面に沿って建つベンガラ館の復元工場と建物の間の道
ベンガラ館の復元工場。2006年9月30日撮影。撮影:663highland/Wikimedia Commons/CC BY 2.5。縦横比を保って縮小しWebP化。現役の製造施設ではありません。

笹畝坑道も鉱山を知る場所ですが、ふらっと立ち寄って自由に入れる施設ではありません。観光協会は2025年4月26日から当分の間、3日前までの予約とガイドの同行が必要と案内しています。古い観光記事の開館情報だけで出かけないようにしてください。

見たいものに合わせると、行き先を選びやすくなります。

  • 商いと住まいを見る: 旧片山家住宅・郷土館。町並みの中で家の表と内部を見比べます。
  • 学校の使い直しを見る: 旧吹屋小学校。校舎の形と、保存修理を経た現在の展示に注目します。
  • 製造の手間を見る: ベンガラ館。復元建物と当時の道具を分けて見ます。冬は開館日が限られます。
  • 掘る場所を見る: 笹畝坑道。予約できる日とガイドの条件を先に確認します。

資料に登場する鉱山跡が、すべて見学可能とは限りません。公開されている範囲と案内に従って見学してください。各施設の公式案内は、記事末尾の参考資料にまとめています。

ほかの町との比較

藍の商いで栄えた脇町と、何が似ているのでしょうか

徳島県美馬市の脇町南町にも、色に関わる商いを伝える家が残っています。吉田家住宅は、1792年創業の藍商の家です。藍蔵などの建物が中庭を囲み、現在は公開されています。

吹屋と比べるときは、赤と青の違いだけでなく、材料を扱う仕事がどんな空間を必要としたかに注目してみます。

見比べる点 吹屋 脇町南町
色に関わる仕事 鉱物をもとにしたベンガラの製造・販売 藍染めの原料を扱う藍商の商い
仕事を伝える場所 旧片山家住宅と、製造道具を見せるベンガラ館 吉田家住宅と、藍を保管した藍蔵
現在の使い方 商家の公開、染め体験、旧学校の展示 商家の公開、藍蔵を使った土産店やカフェ

比べているのは、両地域に残る代表的な施設と仕事です。町全体の家がすべて同じ商売をしていた、という意味ではありません。

脇町では、藍を扱った家と蔵から商いをたどれます。吹屋ではそれに加えて、周辺の鉱山や原料づくり、顔料の製造道具まで見ていくと、町並みが生まれた背景がつながります。

そして両方の町で、古い建物は見せるだけでなく、今の店や学びの場にも使われています。吹屋の赤を知ることは、昔の技術を知ることと、役目を終えた場所をどう使い続けるかを考えること。そのふたつを行き来する町歩きなのです。