鞆の浦の港には、海へ下りる石段が長く続いています。雁木(がんぎ)という、船と陸をつなぐための設備です。潮が満ちても引いても、荷物を受け渡せるように造られました。
広島県福山市にある鞆の浦は、潮の流れが変わるのを待つ港として栄えた町です。船が集まる場所には、荷物を運ぶ人、船を直す人、船の金物をつくる人の仕事がありました。町には保命酒を造る蔵もあります。
石段や建物の形を手がかりに、港を動かしていた仕事と、いま町で続いている営みをたどってみましょう。
町の輪郭
山と海の間に、港と町家が集まる
鞆の浦は、広島県の東部、沼隈半島の南東端にあります。西側に山があり、東側が海。その間に町が広がり、南側には湾を囲むように鞆港があります。沖には仙酔島や弁天島などが見えます。
福山市の保存計画は、周囲の島が波をやわらげることと、潮の流れが変わるこの海域の条件を、潮待ちの港が育った背景として説明しています。船は先へ進みやすい潮を待ち、その間に港を利用しました。
この記事では、鞆港とその周りの町並みを中心に扱います。国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた「福山市鞆町」は約8.6ヘクタールで、町の一部です。後で紹介する人口は、これより広い二つの住所の範囲で集計されています。
「古い町並み」は、同じ時代の建物ばかりではない
鞆町の保存地区には、江戸時代から昭和の建物が重なっています。国の選定は2017年。港の設備だけでなく、町家や蔵、道の形を一緒に見ると、仕事の場と住まいが近い町だったことがつかめます。
海に面した石段、その後ろの建物、さらに山側へ続く道。冒頭の全景写真では、この位置関係に注目してみてください。
歴史と発展
潮を待つ船に、荷運びと修理の仕事が集まる
鞆の名は、古くは『万葉集』に見えます。市の保存計画は、730年に大伴旅人が立ち寄った際の歌を紹介しています。ただし、いま見られる石造りの港の設備が、その頃からあったわけではありません。
江戸時代、鞆は北前船も寄港する港になりました。船の往来を支えた仕事を知るには、次の三つが手がかりになります。
- 雁木で荷物を運ぶ。 福山市の解説には、荷船と石段の間に板を渡し、「中仕」と呼ばれた港の働き手が、重い荷を運んだことが記されています。
- 焚場で船を手入れする。 焚場(たでば)は、木造船の船底を熱して乾かしたり、傷んだ船体を修理したりする場所でした。
- 船に必要な金物をつくる。 鞆では碇や船釘がつくられ、船大工も仕事をしていました。修理の場所と、材料や技術を担う人がそろっていたのです。
雁木が階段になっているのは、潮位が変わっても船に近い高さで作業できるようにするためです。石段を、荷物を背負った人の足場として見ると、形の意味がわかってきます。
港の設備も、必要に合わせてつくり変えられた
鞆の焚場では1791年に、大型の船にも対応できるよう、石垣で補強する工事が始まりました。福山市は、ほかの港の設備が整うなかで、鞆の港が衰えることへの懸念があったと説明しています。恵まれた地形だけで、船が集まり続けたわけではありません。
その後も、大雁木や常夜燈が整えられました。一方、近代には鉄道やバスが発達し、移動と輸送の形が変わります。市の保存計画には、舟運に依存した産業が変わるなかで、鉄鋼業、醸造業、漁業や水産加工業などが町を支えたことが記されています。
| 時期 | 鞆で起きたこと | 仕事を見る手がかり |
|---|---|---|
| 1791年 | 焚場の補強工事が始まる | 大型船を受け入れるための設備投資 |
| 1811年 | 常夜燈へ続く大雁木が造られる | 潮位に合わせて船と陸を結ぶ石段 |
| 1859年 | 西町の人々が常夜燈を寄進する | 船の出入りを導く灯りを町が支える |
| 明治〜大正期 | 鉄道やバスなど陸路の交通が発達する | 舟運中心の町から、仕事の組み合わせが変わる |
鞆の歴史は、昔の港がそのまま止まっている話ではありません。船や輸送の変化に合わせて設備を整え、仕事の形を変えてきた歴史でもあります。
人と暮らし
鞆町鞆と鞆町後地は、合わせて3,068人
福山市の住民基本台帳によると、2026年8月末の鞆町鞆は939人、鞆町後地は2,129人でした。外国人住民を含む集計です。
| 住所の範囲 | 人口 | 世帯数 |
|---|---|---|
| 鞆町鞆 | 939人 | 546世帯 |
| 鞆町後地 | 2,129人 | 1,232世帯 |
| 2地域の合計 | 3,068人 | 1,778世帯 |
この数字は、港の周りの保存地区だけの人口ではありません。町並みの背後にある暮らしの規模を知るため、広い範囲の値として載せています。約8.6ヘクタールの保存地区だけの現在人口は、今回確認できていません。
常夜燈を建てた町の人と、町を案内する子どもたち
鞆の常夜燈は、1859年に西町の人々が寄進したものです。船の出入りを導き、航海の安全を願う設備でした。いま写真に写る石の塔も、町の人が港を支えた具体的な行為の跡です。
町の歴史を伝える活動には、子どもたちも関わっています。福山市立鞆の浦学園は、2025年5月20日・21日・23日に、7〜9年生が世界バラ会議の参加者を案内したと報告しています。
準備は2月から。説明する内容を考え、英文をつくり、ALTを相手に練習しました。当日は7年生が日本語、8・9年生が英語を担当し、地域の「しお待ちガイド」と一緒に、対潮楼、雁木、太田家、常夜燈の4か所を紹介しています。
2026年6月3日の学校記録にも、地域のガイドから6年生が案内の心得を学ぶ授業が登場します。同じ日、7年生は人口や世帯数の変化を学び、住み続けられる町や祭りの継続について考えました。
歴史を覚えること、来た人に伝えること、これからの暮らしを考えること。学校の記録からは、町を知る学びが、こうした具体的な活動になっていることがわかります。
仕事と店
入江豊三郎が1886年に始めた保命酒づくり
鞆の保命酒は、甘い原酒に和漢の薬味を漬け込んでつくる酒です。港町の醸造の仕事を、現在の事業者の説明から見てみます。
入江豊三郎本店の沿革によると、入江豊三郎は1886年、鞆町鞆で保命酒とみりんの醸造を始めました。同店の歴史紹介では、香川県観音寺で海運や酒造を営んだ後、鞆へ移り住んだ人物とされています。海運と酒造に関わった人が移り住み、鞆で醸造を始めたことがわかります。
現在の会社案内では、本店は鞆町鞆534、蔵は同600-1にあります。創業の年と会社の設立は別で、有限会社になったのは1982年です。
甘さをつくるのは、もち米と麹の働き
入江豊三郎本店は、鞆町内の蔵で蒸米や麹づくりを行い、原酒から保命酒を製造すると説明しています。その工程を大きく分けると、次のようになります。
- もち米・麹・焼酎を仕込む。 麹の酵素がもち米のでんぷんを糖に変え、甘い原酒のもとをつくります。
- 原酒をじっくり育てる。 同店では春先の4月に仕込み、原酒ができるまで約8か月かけます。
- 酒と薬味を合わせ、さらに熟成させる。 寝かせた酒と新しい酒を合わせ、焼酎を調合し、薬味を漬け込みます。
清酒のように、酵母がアルコールを生み出す発酵工程を含まないのが、この原酒づくりの特徴です。焼酎を使い、米の甘さを引き出す工程は、本みりんづくりと共通しています。
これは入江豊三郎本店が公表している製法です。薬味の配合は店によって異なります。瓶のラベルだけでなく、原酒づくりや薬味の配合にも、店ごとの仕事があります。
見どころ
太田家住宅では、保命酒の商家の広がりを見る
太田家住宅は、保命酒の醸造・販売で栄えた商家の建物群です。福山市の紹介によると、もとは中村家の屋敷で、保存修理によって江戸時代末から明治時代初期の姿に復元されています。
外観を見るときは、通りに面した木の格子や大きな看板、その先に連なる建物に注目してみてください。保命酒は瓶に詰められた商品ですが、それをつくり、蓄え、売るためには、町のなかにまとまった空間が必要だったことが伝わります。
鞆てらすは、町家を使い続けるための拠点
鞆町鞆812-1にある「鞆てらす」では、町並み保存や祭り、港の歴史についての展示を見られます。建物の東側には、明治時代の町家を昔ながらの技法で再生した部分があります。
2階には、建物の修理や空き家の再生・活用を相談する窓口もあります。歴史の紹介と、建物をこれから使っていくための相談が、同じ施設に置かれているのです。
| 見る場所 | この記事を読んでから注目したいこと |
|---|---|
| 港の雁木 | 水面と石段の高さ。船と陸の間で、どう荷を受け渡したか |
| 常夜燈 | 灯りの場所と港の広がり。船を迎える設備としての役割 |
| 太田家住宅 | 店の表構えと建物の連なり。保命酒を扱った商家の空間 |
| 鞆てらす | 再生した町家と展示。建物を使い続けるための取り組み |
2026年10月6日に確認した市の案内では、鞆てらすは9〜17時、入館無料です。火曜日は休館で、祝日の場合は翌日、年末年始も休館となります。臨時の変更は、末尾の公式案内で確認できます。
ほかの町との比較
鞆の「雁木」と、佐原の「だし」
水辺と町の仕事の関係は、千葉県香取市の佐原と比べると、もう少し見えやすくなります。
佐原では、小野川から利根川を通じて江戸へつながる舟運が発達しました。香取市の解説に登場する「だし」は、川岸から下りる石段と、川へ張り出した荷揚げ場です。舟と商家の間で荷物を受け渡す場所でした。
| 比べる点 | 鞆の浦 | 佐原 |
|---|---|---|
| 町をつなぐ水路 | 瀬戸内海の航路 | 小野川・利根川から江戸へ続く舟運 |
| 水辺の設備 | 潮位が変わっても使える階段状の雁木 | 石段と荷揚げ場を備えた「だし」 |
| この記事で注目する仕事 | 荷運び、船の修理、船釘や碇の製作 | 舟から荷を揚げ、商家へつなぐ仕事 |
| 見るときの手がかり | 港の石段と、船の整備を支えた町 | 川岸の荷揚げ場と、沿岸の商家 |
二つの町に共通するのは、水路があるだけで商いが成り立つわけではなく、船と陸をつなぐ場所と人が必要だったことです。そのうえで鞆には、次の航海へ出る船を手入れする、修理の拠点としての姿も見えてきます。
港の石段、船を導く常夜燈、保命酒の看板。鞆の浦では、それぞれを支えた仕事まで知ると、町に残るものの見え方が変わります。
本稿は自治体・学校・事業者の公表資料をもとに構成しました。現地や当事者への独自取材は行っていません。写真は2008年・2009年・2020年の記録で、現在の景観や商品の仕様を示すものではありません。





