竹原の町並みは、塩づくりで得た富と、船で物を運ぶ仕事、酒を醸す仕事が重なってできました。広島県竹原市の本町には、その歩みを伝える商家や酒蔵が並んでいます。
大きな屋根や細かな格子を眺めるとき、家の向こうにあった塩田や港を思い浮かべると、町の見え方が変わります。建物を使い続ける酒蔵と、暮らしながら景観を守る人たちの仕事もたどってみましょう。
町の輪郭
本川と寺山の間に、町家と横道が並ぶ
竹原の町並み保存地区は、JR竹原駅の北側、本町通りを中心とする一帯です。西側には本川、東側には寺山があり、通りから川の方へ細い道が延びています。
竹原市の保存冊子は、この道と町家・倉庫の組み合わせに、中世末期の港町の姿が残っていると推測しています。大通りだけでなく横道を見ると、川と町の近さがわかります。
国が重要伝統的建造物群保存地区に選んでいるのは、本町一・三・四丁目の一部、約5ヘクタールです。この記事ではこの町並みを中心に、塩田や港の歴史に関わる周辺も扱います。「竹原市全体」「本町全体」「保存地区」は、それぞれ違う範囲です。
本町の人口と、保存地区の人口を分けて考える
『令和7年度竹原市統計書』に載る2020年国勢調査では、本町全体は1,391人、659世帯です。これは2020年10月1日を基準にした数字で、2026年現在の人数ではありません。
保存地区は本町の一部なので、この数字をそのまま「保存地区の人口」とは呼べません。地区の内側だけの現在人口は、今回確認した統計からは確定できませんでした。
歴史と発展
田畑にするはずの土地を、塩田へ変えた
竹原の製塩業が大きく発展するきっかけは、海を干拓してつくった土地の使い方を変えたことでした。竹原市の歴史的風致維持向上計画は、1647年に完成した「大新開」の海側では、土地が低く塩気も強いため耕作に向かなかったと説明しています。
そこで1650年に塩浜へ切り替えました。市の保存冊子には、播磨国赤穂の商人の提案を受け、赤穂の製塩技術を取り入れた経緯が記されています。
使ったのは、潮の満ち引きを利用して海水を引き入れる「入浜式塩田」です。塩をつくる土地に変えることで、干拓地が新しい収入を生む場所になりました。
塩を運び出す本川の港では、船で物を運ぶ廻船業や、商品をまとめて扱う問屋業も発展します。塩田だけで仕事が完結するのではなく、運ぶ人、売る人、燃料を供給する人の仕事がつながっていました。
塩を積み出す港に米が集まり、酒造りを支えた
竹原の酒造りは、塩田ができてから始まったわけではありません。市の計画第2章は『竹原市史』をもとに、1634年ごろには10軒の酒造家があったと記しています。
その後の発展で大切なのが、港を通じた米の流通です。同計画によると、竹原では町や塩浜で働く人の食べる米を他国から買う必要がありました。米を運ぶ船の寄港は塩の販売にも関わるため、藩は他国米の購入を認めていたといいます。
こうして集まった米は、酒の原料にもなりました。海から得る塩と、船で届く米。その両方を扱う町として、竹原の商いが広がっていきます。
竹鶴家は、そのつながりを伝える一例です。国土交通省の地域解説では、1651年に製塩業、1733年に酒造業を始めたとされています。町全体の酒造りの始まりと、一軒の家が酒造りを始めた年は分けて読む必要があります。
塩田がなくなった後、町並みを守る時代へ
竹原の塩田は1960年に廃止されました。『広報たけはら』2023年2月号は、その後に塩田跡地の開発が進み、町の中心が駅周辺の新市街地へ移ったと説明しています。
古い町並みが残ったことに加え、それを守る仕組みと住民の活動が重なって、現在の保存地区につながりました。1982年12月16日には、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
| 転機 | 竹原で変わったこと |
|---|---|
| 1647年 | 大新開が完成。田畑として使うための干拓だった |
| 1650年 | 耕作に向かなかった土地を塩浜へ転用 |
| 1960年 | 塩田を廃止。跡地の開発と新市街地への移行が進む |
| 1982年 | 町並みの保存地区選定と、住民による保存活動が始まる |
人と暮らし
町並みを守る仕事は、清掃や防火訓練にもある
竹原町並保存会は、建物を眺めるだけでは見えにくい日々の活動を担ってきました。『広報たけはら』2023年2月号で、市が当時の会長・三藤芳輝(みとうよしてる)さんに取材しています。
記事で紹介されている主な活動は、次のようなものです。
- 保存地区の清掃と、賴惟清旧宅の管理
- 会誌「保存会だより」の発行
- 年1回の防火訓練
- 竹まつりや憧憬の路への協力
三藤さんは、町並みが住民にとって生活の場であることを伝える一方、活動の担い手不足や、親世代から子世代へ受け継ぐ難しさにも触れています。これは2023年の取材内容で、現在の会員数や活動回数を調べた結果ではありません。
歴史的な家が並ぶ景色は、そこで暮らし、火災に備え、掃除をし、次の世代へ伝える人たちの行為とも結びついています。
竹鶴政孝の出発点と、町の学びの場所
ニッカウヰスキーを創業した竹鶴政孝は、1894年、当時の竹原町の造り酒屋に生まれました。ニッカの公式記録は、醸造家に生まれた政孝が摂津酒造に入り、スコットランドで学び、やがて北海道余市で事業を始めた歩みを伝えています。
竹原は政孝の出発点です。ウイスキーづくりのすべてを竹原で行った、という意味ではありません。町の酒造りと、外へ出て学んだ一人の仕事を分けて見ると、そのつながりがはっきりします。
本町の学びの歴史は、竹原市歴史民俗資料館の建物にも残っています。市の計画によると、1931年に町立の竹原書院図書館として建てられ、1971年まで図書館として使われました。その前身には、1910年に町の有志が設立した竹原書院があります。
仕事と店
藤井酒造は、いったん途絶えた生酛造りを選び直した
本町三丁目の藤井酒造は、1863年創業の酒蔵です。「龍勢」や「夜の帝王」を造っています。
同社の沿革を見ると、昔の方法をただ続けてきたわけではないことがわかります。1999年には全量を純米酒へ切り替え、2008年に生酛(きもと)造りを再開。2023年には、すべての酒を生酛仕込みにしています。
生酛は、自然の乳酸菌の働きを利用して、酒の発酵のもとになる「酒母」を育てる伝統的な方法です。藤井酒造は現在の公式説明で、培養した酵母や乳酸菌を加えず、蔵にある微生物の働きを生かす方針を示しています。
その仕事は、放っておくこととも違います。同社は、音や香りの変化を確かめ、発酵の進み方を見て整えるか待つかを判断すると説明しています。古い建物が残るだけでなく、その中で日ごとの判断を重ねる仕事が続いています。
酒蔵交流館で、つくる場所と飲む人が接する
藤井酒造の酒蔵交流館は、酒蔵の一角を改装した空間です。公式案内では、銘柄を替えながらの試飲と購入、酒粕からつくった石けんや器・雑貨の販売を紹介しています。
2026年10月4日に確認した案内では、営業は11時〜16時、月曜休館(祝日の場合は翌日)。入館と試飲は無料です。製造現場への自由な立ち入りを案内しているわけではないため、見学できる範囲は現地の案内に従ってください。
見どころ
大屋根と菱格子を見たら、家の商いも思い出す
旧松阪家住宅では、丸みを帯びた唐破風(からはふ)の屋根と、菱形の格子を持つ窓が目を引きます。冒頭の写真にも、その形が写っています。
観光機構の案内によると、建物は江戸時代の文政年間に建てられ、1879年に改築されました。市の計画には、松阪家が塩田に必要な薪、のちには石炭を扱う問屋を営み、塩田経営にも関わったことが記されています。
立派な家を「裕福だったから」で終えず、塩をつくるための燃料を商う仕事まで思い浮かべると、家と産業のつながりが見えてきます。公開時間や休館日は、末尾の施設案内で確認できます。
普明閣では、町を見下ろす高さにも注目する
西方寺の普明閣(ふめいかく)は、高台に立つ観音堂です。観光機構の案内では、京都の清水寺を模して建立されたと伝えられています。
斜面に柱を立てた建物の形と、その高い場所から見える町並みが見どころです。本町通りで屋根や格子を近くから見た後は、建物が集まって町になる様子にも目を向けられます。
いま歩くときは、工事と公開範囲を確認する
2026年10月2日更新の市の案内では、町並み保存地区の一部で、10月5〜9日の8時30分〜17時に車両通行止めを予定しています。歩行者は誘導により通行できる案内です。対象区間や日程は変わるため、訪問前に最新の規制図を確認してください。
町を案内してもらう方法もあります。観光機構は、2026年4月〜2027年3月の土曜日に、道の駅たけはらを13時30分に出発する約2時間のガイドを案内しています。年末年始は除き、施設への入館料は別です。
- 私有の家と、内部を公開している施設を分けて見る。
- 酒蔵や旧宅は、外観だけを案内する場所もある。
- 狭い道では、住民の出入りと工事の誘導を妨げない。
ほかの町との比較
脇町と比べると、商家の向こうの商品が違う
徳島県美馬市の脇町も、水運と商いによって発展した町です。美馬市は、吉野川の川湊として荷を集め、とくに藍の取引で富を築いた商人が商家を構えたと説明しています。
| 見る軸 | 竹原の本町周辺 | 脇町の南町周辺 |
|---|---|---|
| 商いを支えた品物 | 塩。港に集まる米は酒造りも支えた | 藍。川沿いの産地と各地を結んだ |
| 水辺との関係 | 本川の港から、海の航路へつながる | 吉野川の川湊に荷物を集める |
| 建物で見える仕事 | 商家の意匠と、現在も使う酒蔵 | 吉田家住宅の帳場、藍蔵、裏手の船着場 |
竹原には酒以外の商いがあり、脇町にも藍以外の暮らしがありました。この表は町のすべてを一つの産業で説明するものではなく、町並みが発展した道筋を比べたものです。
脇町の藍商と町並みを読むと、川や海へつながる道を見比べられます。竹原では、屋根や格子の美しさに加え、塩田に燃料を届けた仕事、米を運ぶ船、今日も酒を仕込む蔵へと目を向けると、町並みを支えた営みが具体的に見えてきます。
本文は自治体・事業者などの公開資料をもとに構成し、現地・当事者への独自取材は行っていません。写真は2006年・2010年・2013年・2018年・2025年の記録です。



