金屋町の町家は暮らす家であると同時に、金属を溶かして道具をつくる仕事場でもありました。家の奥に作業場を置いたつくりや、仕事の唄から生まれた踊りに、その暮らしの跡が残っています。
この記事では富山県高岡市の金屋町を、町並み・鋳物づくり・祭りのつながりからたどります。自治体の保存計画、当事者の案内、公開された取材記事に基づくガイドです。
町の輪郭
どこの金屋町を歩くのでしょうか
ここで取り上げる金屋町は、高岡市の中心部を流れる千保川(せんぼがわ)の西側にあります。JR高岡駅から鋳物資料館までは徒歩約20分。金屋町通りを中心に、格子のある町家が並ぶ一帯です。
国の重要伝統的建造物群保存地区、つまり歴史的な町並みをまとまりとして守る地区に、2012年に選ばれました。対象は「金屋町」と「金屋本町」のそれぞれ一部、約6.4ヘクタールです。高岡市全体や、鋳物師が移ってくる前にいた戸出西部金屋とは区別します。[1・2]
市の住民基本台帳では、2026年9月30日現在の人口は次のようになっています。これは町名ごとの数字で、保存地区の中だけを数えたものではありません。[3]
| 町名 | 人口 | 世帯数 |
|---|---|---|
| 金屋町 | 423人 | 190世帯 |
| 金屋本町 | 75人 | 40世帯 |
川は、鋳物の町をどう支えたのでしょうか
鋳物(いもの)は溶かした金属を型に流し込み、冷やして固めたものです。鍋や釜をつくるにも、金属だけでなく、型の材料や燃料を運ぶ必要がありました。
高岡市の歴史文化基本構想によると、鋳物砂は伏木一宮で採れ、鉄や銅などは新川、能登、越後などから伏木港に集まりました。そこから小矢部川、千保川をたどり、舟で金屋町へ運ばれています。町の横を流れる川は材料を仕事場へ届ける道でもあったのです。[4]
この水運は鉄道の開通によって失われたと同資料は説明します。いまの川岸に荷揚げの光景が続いているわけではありませんが、港と川と金屋町の位置を合わせて見ると、内陸に鋳物の町が育った条件がわかります。
歴史と発展
鍋や釜の仕事は、何へ広がったのでしょうか
金屋町の始まりは、1611年に前田利長が西部金屋から7人の鋳物師を招いたことにあります。鋳物師とは、鋳物をつくる職人のこと。当初は鉄の鍋や釜、農具など、生活や生産に使うものが中心でした。[1・5]
やがて銅の鐘や灯籠、仏具、花瓶へと品物が広がります。形を鋳出すだけでなく、表面に模様を彫る彫金などの仕事と結びついたことで、実用品から装飾のある品物まで手がけるようになりました。江戸末期から明治にかけては、問屋が職人に注文を出す分業も進みます。[1・5]
「高岡銅器」という名前を先に知ると、最初から美術品だけをつくっていた町に見えるかもしれません。資料館に残る鍋や釜は、火を使って煮炊きすることや、日々の仕事に使う道具が、この産地を支えていたことを伝えます。
家の奥に作業場があるのはなぜでしょうか
金屋町の敷地には、通りに面する間口が狭く、奥行きの深いものが多くあります。代表的な配置は、通り側から主屋、中庭、土蔵、作業場の順です。主屋は、住まいの中心となる建物を指します。
暮らす場所と火を使う場所の間に土蔵を挟むのは、火災が燃え広がるのを防ぐ工夫とされています。家と仕事場が同じ敷地にあるからこそ、火との距離の取り方が建物の並びに表れました。[1・2]
通りから見える細かな格子は「サマノコ」と呼ばれます。ただし、今並ぶ町家のすべてが1611年から残るわけではありません。市の調査では江戸末期から昭和に建てられた家があり、建てた時期によって2階の高さなども異なります。町の始まりの年と、目の前の建物の年齢は別に考える必要があります。[1]
工場が移ったあと、町はどう変わったのでしょうか
昭和30年代以降、鋳物工場は郊外へ移り始めました。1976年度には戸出の工業団地が造成され、金屋町の多くの業者も移転しています。家と生産現場が一体だった町は、鋳物に携わる人の住む場所へと性格を変えていきました。[1]
工場が移ったからといって、建物や仕事との縁が一度に消えたわけではありません。作業場の一部は車庫や倉庫などに使われ、現在の町には資料館や店もあります。大きな工場が並ぶ風景を期待するより、建物の配置や残された道具を手がかりに、仕事場だった町を見ていくと理解しやすくなります。
人と暮らし
炉のそばで歌った唄が、なぜ町を踊るのでしょうか
金屋町では毎年6月、前田利長の恩に感謝する「御印祭(ごいんさい)」が行われます。6月19日の前夜祭には、町を踊りながら進む「町流し」があり、20日に報恩感謝祭が行われます。2026年も、19日の町流しの様子が市長のコラムに記されています。[6・7]
町流しで親しまれる「弥栄節(やがえぶし)」は、もともと鋳物づくりの作業唄でした。炉に風を送る大型のふいごを足で踏む「たたら踏み」は、仲間と動きを合わせる重労働です。唄はその拍子を揃える役目を担っていました。
男性の踊りで竹の棒を持つ所作にも、作業の動きが取り入れられています。[6]
唄を残すために、誰が何を変えてきたのでしょうか
機械で風を送るようになると、たたら踏みと作業唄はいったん姿を消しました。市の記録では、1929年に地元の医師・郷土史家の飛見丈繁らが弥栄節を復活させ、1958年には清水保雄が編曲しています。昔の仕事がなくなったあと、人の手で歌い直してきた唄です。[7]
1975年には弥栄節保存会が設立されました。サントリー文化財団の2022年の紹介では、金屋町の自治会員全員が会員となり、子どもへの指導や、保育士・教員向けの講習、映像教材づくりを行っています。子どもが歌いやすい形や、琴で演奏する形への編曲にも応じてきました。[8]
その取り組みからは、同じ形を繰り返すだけではない継承の方法が見えてきます。炉を動かすために揃えた拍子が、いまは町の人と子どもが一緒に覚える唄や踊りになっています。
仕事と店
砂の型から、どうやって金属の形が生まれるのでしょうか
鋳物づくりには、型をつくる仕事と、金属を流し込んだあとの仕上げもあります。高岡のメーカー・能作が紹介する「生型(なまがた)鋳造」では、砂を使って品物の形を写し取ります。主な流れは次のとおりです。[9]
- 木型の周りに、少量の水と粘土を加えた砂を詰めて押し固めます。
- 木型を抜くと、砂の中に品物の形をした空洞ができます。
- そこへ溶かした金属を流し、冷えて固まったら取り出します。
- 余分な部分を削り、磨きや着色などで仕上げます。
砂型を焼かずに使うのが、生型鋳造の特徴です。これは鋳造法の一例で、金屋町や高岡のすべての製品が同じ方法で作られるわけではありません。能作の説明では、鋳造のほかにも仕上げ、彫金、着色といった専門の仕事を組み合わせて品物が完成します。
大寺幸八郎商店は、暮らしの変化にどう応えてきたのでしょうか
金屋町6-9の大寺幸八郎商店は1860年に鋳物工場として始まりました。公式案内によると、同店は鋳物の製造・卸に加え、自宅を使った店舗やカフェ、ギャラリー、錫(すず)のアクセサリーづくりを展開しています。[10]
大西マリコ氏による2025年の公開インタビューで、6代目の大寺康太さんは、家業で扱うものの変化を説明しています。かつての瓶掛けや火鉢から、床の間の花瓶・置物へ。瓶掛けは、鉄瓶をかけて湯を沸かすための火鉢です。[16]
床の間の少ない住まいが増えるなか、近年は小さな干支の置物なども扱っています。[11]
同じ取材に登場する妻の桂さんは、東京出身で2016年に高岡へ移住した人です。やわらかい錫を曲げたり切ったりできる特徴を、アクセサリーづくりに生かしています。職人の技を残すことと、いまの暮らしの中で使える大きさや用途を考えることが、店の仕事につながっています。[11]
店を訪れるときは、品物の形だけでなく「何に使うためのものか」を見てみると、鍋や釜から始まった町の歴史とのつながりが感じられます。体験を希望する場合は、実施内容と予約方法を商店の公式案内で確認してください。
見どころ
道具、町家、炉は、どの順に見るとわかりやすいでしょうか
まず道具を知り、町家の外観を見て、最後に大きな炉を見ると、家の奥でどんな仕事が行われていたかを想像しやすくなります。
- 高岡市鋳物資料館(金屋町1-5):鋳物の歴史を道具や資料から知る場所です。9時〜16時30分。火曜休館で、祝日の場合は翌日が休館です。[5]
- 金屋町通り:サマノコの格子、軒、家ごとの2階の高さを比べてみます。通りに面した家は生活の場でもあるため、内部の見学可否は施設ごとに確認します。
- 高岡市金屋鋳物師町交流館の展示棟(金屋町2-20):鋳物の展示を見られる場所です。9時〜16時30分、無料。火曜休館で、祝日の場合はその翌開館日が休館です。研修棟とは住所と利用時間が異なります。[12]
- 旧南部鋳造所キュポラと煙突(金屋本町):金属を溶かした炉と煙突が残ります。1924年に建てられ、2000年まで稼働した設備です。[4・13]
キュポラは金属を溶かす炉です。旧南部鋳造所では、人力から機械による送風へ移るだけでなく、送る空気を排熱で温める工夫もされました。手足でふいごを動かしていた仕事が、どう機械へ変わったかを、御印祭の唄と合わせて考えられる遺構です。[13]
開館情報は2026年10月21日に各施設の公式案内で確認しています。年末年始や臨時休館もあるため、訪問直前に確認してください。資料館や展示棟の入館案内は、私有の町家や作業場への立ち入りを認めるものではありません。
石畳も江戸時代から続いているのでしょうか
町の歴史は400年以上ありますが、今の石畳は後年の整備です。市の保存計画によると、1979年の道路拡幅計画を機に住民から景観を守る要望が出され、1982年にまちづくり推進協議会が発足しました。電線の地中化に続き、1989年から3年間で石畳や消雪設備などが整えられています。[1]
古い町家を残すことと、暮らしやすい道をつくること。その両方に取り組んだ人たちの選択が、現在の通りの姿になっています。石畳の新しさを知ると、町全体を「昔のまま」と見るより、住み続けるために手を入れてきた場所として見えてきます。
ほかの町との比較
同じ富山の職人町、井波とは何が違うのでしょうか
富山県南砺市の井波も、町家と職人の仕事が近い町です。ただし、産業が育ったきっかけや、仕事が見える場所には違いがあります。
井波彫刻は、瑞泉寺の再建の際、京都から来た彫刻師・前川三四郎から地元の大工が技を学んだことに始まります。寺を飾る木彫から住宅の欄間や置物にも仕事が広がり、門前の八日町通りには工房や彫刻のある看板が並びます。[14・15]
| 見る軸 | 金屋町 | 井波 |
|---|---|---|
| 産業の始まり | 利長が鋳物師を招き、生活道具などを生産 | 寺の再建で地元の大工が木彫を学ぶ |
| 仕事と町家 | 主屋の奥に土蔵・作業場を置く配置 | 門前の通りに彫刻工房が並ぶ |
| 技を知る手がかり | 砂型や釜、炉、作業唄を伝える踊り | 寺の彫刻、欄間、看板、工房の仕事 |
井波では、木を彫って生まれた形が寺や店先に見えます。金屋町では、完成品だけでなく、家の奥行きや炉、踊りに残る作業の動きにも目を向けると、町と仕事の関係がつかめます。
どちらも「職人の町」ですが、見たいものを少し変えると、歩き方も変わります。鋳物が暮らしの近くでつくられていた仕組みを知りたいなら、金屋町の道具と建物の配置を合わせて見るところから始めてみてください。
参考資料
以下は本文の番号に対応します。資料と公式案内の確認日は2026年10月21日です。現地取材をした記事ではなく、公開資料を読み合わせたガイドです。
高岡市「金屋町重要伝統的建造物群保存地区」
高岡市「町別人口・世帯数(2026年9月30日)」
高岡市「歴史文化基本構想 第2部第3章」
高岡市「高岡市鋳物資料館」
御印祭実行委員会「御印祭の由来と弥栄節」
高岡市「2026年7月 市長コラム」
サントリー文化財団「弥栄節保存会:2022年サントリー地域文化賞」
株式会社能作「能作の鋳造技術」
大寺幸八郎商店「大寺幸八郎商店 公式案内」
だします。/取材・文:大西マリコ「高岡・大寺幸八郎商店の公開インタビュー(2025年8月7日)」
高岡市「高岡市金屋鋳物師町交流館」
文化庁日本遺産/高岡市教育委員会「旧南部鋳造所キュポラ及び煙突」
南砺市「井波彫刻とは」
文化庁日本遺産「宮大工の鑿一丁から生まれた木彫刻美術館・井波」
岐阜県文化財保護センター「美濃の茶道具と徳山陣屋跡」(瓶掛型火鉢の用途)
写真・図版:カバーはMiyuki Meinakaの金屋町写真(2010年10月31日、Public domain)。本文の写真5点は高岡市の日本遺産紹介用提供画像です。撮影年は不明。画像の提供条件はCreative Commonsとは異なります。配置図は資料1・2をもとに独自作成(CC BY 4.0)。





